蘇我入鹿を殺したのは誰だ?日本で最も有名なクーデター大化改新の謎

蘇我入鹿を殺したのは誰だ?日本で最も有名なクーデター大化改新の謎

大化改新といえば645年。しかしその習い方も今は昔。現在はより詳細に、645年に起きた乙巳の変(いっしのへん)に始まる一連の政治制度改革となっている。
言われてみれば645年という記憶はあっても、大化改新の内容について問われると、急にモゴモゴ口籠ってしまう。そして何より大化改新自体、本当に起こったのかどうかも怪しいという見方まである。
いい機会なので、日本で最も有名なクーデターの中身を紐解きつつ、まことしやかに囁かれている噂の真偽を考察してみよう。

小学校で習った大化改新は地方豪族から天皇中心の政治への転換

大化改新の概要をめちゃめちゃ簡単に言うと…
聖徳太子亡き後、天皇を上回る権力を誇っていた蘇我氏の中心人物・蘇我入鹿(そがのいるか)を、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり=のちの藤原鎌足)らが暗殺した乙巳の変(いっしのへん)から新政権の発足までのことである。
もちろん現代では、天皇の権力を民間人が上回ることや復権のため皇族が民間人を討つことは考えられないが、日本史を紐解いてみると、中世あたりまでは意外と天皇や皇族も戦乱の表舞台に登場している。

余談だが、乙巳の変の中心人物となる中大兄皇子と中臣鎌足の出会いがちょっと面白い。
権力を恣(ほしいまま)にし、横暴な政治をおこなっていた蘇我入鹿を、中大兄皇子は常日頃から面白くないと思っていた。そんな中大兄皇子が蹴鞠をしていた時、脱げた靴を拾ったのが中臣鎌足である。
日本書紀によると、このとき中大兄皇子は中臣鎌足に蘇我氏打倒の協力を仰いだとのことだが、靴がうまく脱げなかったらどうしたのだろう。また中臣鎌足は中大兄皇子との出会い以前に軽皇子(かるのみこ=のちの孝徳天皇)にも近づいていたらしく、筆者が中大兄皇子だったら中臣鎌足こそ怪しむと思うのだが……。大事を為す人物は器が大きいということか。

大化改新にまつわる記述は日本書紀にしか記されていない

乙巳の変が起こったのは645年。しかし、その記述がある『日本書紀』の成立は720年である。およそ80年間の空白があり、これがどうも気になる。また日本書紀は中臣鎌足の次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)が部下の太安万侶(おおのやすまろ)に書かせている。

国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1190-0?locale=ja)

大化改新以降、隆盛を誇っていた藤原氏が日本初の歴史書を執り仕切るのは普通といえば普通だが、でもなぜ80年も時間がかかったのだろう。そして、日本書紀以前にも実は歴史書は存在していた。それが『国記』・『天皇記』である。これらの書物は聖徳太子と蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子(そがのうまこ)によって編集され推古天皇に献上されたが、乙巳の変で焼失したことになっている。
以上を踏まえると、乙巳の変の記述が日本書紀にしか残っていないこと自体は何ら不審ではないが、国記は焼失を免れ乙巳の変後、中大兄皇子に献上されたという説もある。もしそれが真実なら、中大兄皇子は日本の歴史を記す大事な書物を一体、何処にやったのだろう。

中大兄皇子は母を助けたかっただけ?

乙巳の変後、蘇我氏を倒した中大兄皇子は自ら天皇に即位していない。このとき天皇になったのは、中臣鎌足が中大兄皇子よりも先に接触していたとされる軽皇子こと孝徳天皇なのである。普通、復権の中心人物である中大兄皇子が即位するのが自然な流れのように思えるが、彼が天智天皇として即位するのは蘇我入鹿暗殺から23年後のことである。

なぜ?

実は蘇我氏が実権を握っていた頃の天皇というのが、中大兄皇子の母・皇極天皇(こうぎょくてんのう)である。そして皇極天皇は蘇我入鹿の愛人だったとも言われている。政権交代後は前政権の人物は粛清されるのが筋だが、なんと退位しただけでお咎めなし。乙巳の変後、中大兄皇子が軽皇子に道を譲ったのも、このあたりに理由がありそうだ。

大化改新につながる乙巳の変は本当に起こったのか?

何はともあれ即位した孝徳天皇は「改新の詔」を発令。天皇を中心とした本格的な国造りの幕開け……となるわけだが、謎はまだまだある。少し、時を戻そう。
日本書紀によれば、乙巳の変の際、現場には蘇我入鹿の息がかかった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)という人物が居合わせたとされている。その古人大兄皇子が現場から逃げるときに言った言葉が日本書紀に残っている。

「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」

韓人とはそのまま朝鮮半島の人間を指している。これはどういうことだろう。蘇我入鹿を討ったのは中大兄皇子と中臣鎌足ではないのか。そして、なぜそれが日本書紀に記されているのだろう。
現在発見されている文献からでは、大化改新のすべてを紐解くことは不可能だ。ただ、もし焼失を逃れた国記がどこからか出てきたり、古人大兄皇子の言葉の裏付けが取れたりしたら、定説とされている歴史が根底から覆されることもないとはいえないのである。

トップ画像出典:国立国会図書館

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