まるでキャプテン翼!Jリーグ黎明期に現れた「ただひとりの天才」礒貝洋光

まるでキャプテン翼!Jリーグ黎明期に現れた「ただひとりの天才」礒貝洋光

天才はどんな世界にもいる。ただ、恵まれない環境でその才能を発揮するには相応の光を放っていないといけない。
平成5年(1993年)5月、日本初のプロサッカーリーグ「Jリーグ」が開幕した。それまで野球の影に隠れ、マイナースポーツのひとつだった日本のサッカーが、スタジアムは超満員、グッズは飛ぶように売れ、テレビ番組やCMにJリーガーが起用されるようになった。
しかし、それはあくまで興業的な話。Jリーグが開幕した年、日本はワールドカップの最終予選で敗退する。「ドーハの悲劇」だ。選手もサポーターも夢から覚めた瞬間だった。
ただ、その中で当時24歳。怪我でJリーグの開幕にも、そしてワールドカップ予選にも間に合わなかった「ただひとりの天才」と呼ばれた礒貝洋光(いそがいひろみつ)という選手がいたことは、もうあまり知られていない。

少年時代から天才と呼ばれ、名門校入学後は1年からエースナンバー10番を背負う

礒貝が活躍していた当時、日本のサッカーは育成や競技環境などのインフラ面、そして選手やコーチの意識の面でも、世界から10年は遅れていた。それゆえにいかに才能があろうともその多くは見出されないまま埋もれ「サッカーは子供の遊び」というイメージが色濃くあった。
礒貝もそうした中でボールを蹴り始めた。しかし、彼のプレーには誰もが見逃せない華があった。地元・熊本県の少年団に入団すると全国大会で活躍し、中学にあがるとU-17(17歳以下)の日本代表に選出された。並いる先輩を差し置いてエースストライカーとして君臨し、名門・帝京高校に入学後は1年からエースナンバー10番を背負う。

Jリーグ開幕以前、高校サッカーは多くの選手にとっていわば頂点だった。大学、社会人リーグという道はあるにせよ、ほとんどの選手が高校3年の冬の高校選手権でスパイクを脱ぐ。当時の帝京高校は、野球で言えばPL学園や智弁和歌山といった名門中の名門。1年から10番を与えられることは、まずあり得ないのだ。

称賛や批判もどこ吹く風、礒貝は自らの視点でのみ現状と未来をとらえていた

帝京高校時代の同期で、後に鹿島アントラーズで活躍した本田泰人は当時の礒貝を「怪物」、そしてJリーグで日本人初の得点王に輝いた福田正博は「すべてを兼ね備えた選手」と称した。しかしそんな絶賛の中でも礒貝はどこか飄々としていた。

こんなエピソードがある。

高校最後の冬の選手権。準々決勝で対戦した東海大一戦は、0-0のままPK戦決着にもつれこんだ。PK戦は、両チーム5人ずつ選出し、交代でキーパーが守るゴールにシュートして得点数を競うもの。礒貝は5人目でキッカーが回ってきた。しかし、その時点で相手に2点先行されていた。つまり礒貝が得点して、次に相手がシュートを外して、ようやく同点。分の悪い中で礒貝が放ったシュートは、なんとも中途半端で、相手キーパーにあっさり阻まれた。礒貝は、後のインタビューで当時をこんなふうに振り返っている。

「俺が決めても次に平沢(東海大一の選手)が決めたら向こうの勝ちだったから、どうせ負けるなら俺で終わらせた方がいいんじゃないかな、と。負けて高校生らしく涙を流せばよかったのかもしれないけど、そういう心境じゃなかったんだろうね」

サッカーはチームスポーツだ。名門帝京にあって、土壇場での勝負を分けたのが礒貝の心積もりひとつだとしたら、やはりとんでもない化物級の選手だ。礒貝のプレースタイルは、よくマラドーナと比較される。そういえば、マラドーナ全盛期のアルゼンチン代表チームも彼の出来がチームの勝敗を左右していた。

いうなれば漫画の世界、すべてにおいて規格外の男

筆者はJリーグでプレーする礒貝しか知らないが、一試合中に右足と左足で1本ずつフリーキックを決めたり、無失点記録を更新していたゴールキーパーから「得点する」と予告してシュートを突き刺したり、まるで漫画でも見ているようだった。ただ、一方で批判もあった。プレーにはムラがあったし、守備もほとんどしない。また、怪我も多かった。それでもヴェルディ川崎などで活躍した永井秀樹は「マラドーナがどんなにすごくても、小学生時代の礒貝にはかなわない」と最大級の賛辞を贈っている。Jリーグでもあんなにすごかったのに、小学生のころはマラドーナですら凌いでいたというのか……。気が遠くなる。

規格外の逸話はまだまだある。
プロ入りする際、礒貝のもとには全チームからオファーが舞い込んでいた。Jリーグは10チームで発足している。Jリーグはドラフト制がないため、ヴェルディ川崎や横浜マリノスなどの人気クラブへ行くのも、当時「世界のジーコ」が在籍していた鹿島アントラーズへ行くのも彼の気持ちひとつだった。その中で礒貝は関西唯一のチーム・ガンバ大阪を選択するわけだが、これについても「京都の舞妓さんと遊びたかったし、釜本さん(釜本邦茂=当時のガンバ大阪監督)に誘われたらウンって言うしかないでしょ」と引退後のインタビューで答えている。
Jリーグが開幕した1993年の日本にとって、サッカーはまだまだファッションだった。礒貝のガンバ大阪入団は様々な憶測を呼んだが、ある意味で天才が天才らしく過ごせた時代だったのかもしれない。

自分の才能を自覚しつつ、それにこだわらないメンタリティもまた天才的

礒貝は29歳で引退した。確かに怪我はあったが、治せば続けることもできた状況でスパイクを脱いだのは、モチベーションの維持に苦しんだせいではないかと思う。チームスポーツにおいて、自分とまわりが見ている景色の違いは埋めることのできない決定的な溝だ。
そして引退後、礒貝はプロゴルファーとしてデビューする。彼に飛ぶ鳥跡を濁さずという言葉は通用しない。そういえば、マイケル・ジョーダンが一時バスケットボールから野球に転向したことがあったが……。ただし、やはり一所にとどまる男ではない。今もたびたびメディアに登場するがそのたびに「サッカースクールのコーチ」「大工の手伝い」「居酒屋の店員」といろんな仕事を転々としている。ゴルフを続けているのかどうかも定かでない。

「そんな姿見たくない」と溜息を漏らすファンもいるかもしれないが、スポーツ選手の寿命は短い。栄光を捨てられず過去の自分との差に苦しむ選手が多い中で、礒貝の生き方はやはり天才といえる。誰に迷惑をかけるわけでもなく、気の向くままに人生を歩む姿は、今も人を惹きつける光を放っている。

まるでキャプテン翼!Jリーグ黎明期に現れた「ただひとりの天才」礒貝洋光
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