画期となった浅草・来々軒の「シナそば」
南京そばからシナそばへ
明治時代になると、清(しん)国人の来日が増え、彼らの居留地「南京(ナンキン)街」に料理店もでき始める。明治20年(1887)頃、横浜の南京街には中国料理店が20軒あり、麺料理も提供されていた。その汁麺を、日本人は「南京そば」と呼んでいた。
いまでこそ中国料理は日本でもポピュラーだが、江戸時代まで肉や動物性の油を用いた料理に縁遠かった明治の日本人にとって、最初のうちは抵抗があったという。しかし西洋の肉料理が広まるにつれて、中国料理も次第に受け入れられ、「シナ料理」と呼ばれた(当時、中国の王朝名とは別に、地域を指してシナとも呼んでいた)。それにともない「南京そば」も、明治30年代頃には「シナそば」と呼ばれるようになり、東京にもシナそばの暖簾(のれん)を掲げる店が現われ始める。
浅草「来々軒」の外観(写真提供:新横浜ラーメン博物館)
醤油味で大評判となったシナそば
そして、ラーメンの源流を語る上で欠かすことのできない店が登場する。明治43年(1910)に東京浅草に開店した広東(カントン)料理店、「来々軒(らいらいけん)」だ。同店が供したシナそばは「麺は小麦と卵にかん水、スープは鶏ガラと豚骨に野菜、具は焼き豚にメンマ、刻みネギ」と至ってシンプルだが、味は「醤油」だった。清国人が伝えた従来の南京そば、シナそばのスープが塩味だったのに対し、日本料理の基本調味料というべき「醤油」を用いた点に特徴があったのである。店頭に掲げた「滋養的 シナ料理 そば わんたん七銭」の看板とともに、来々軒の醤油味のシナそばは大評判となり、現在のいわゆる「東京ラーメン」の原型になったといわれている。
再現された「来々軒」のシナそば(写真提供:新横浜ラーメン博物館)