余は画家になる!平賀源内も絶賛した「絵描きの殿様」佐竹曙山

余は画家になる!平賀源内も絶賛した「絵描きの殿様」佐竹曙山

目次

江戸時代は、その前の室町時代に比べたらかなり自由な時代だった。

従って、一国の殿様が芸術家になることもできた。出羽国秋田久保田藩8代当主佐竹義敦は、趣味が高じて本物の画家になってしまったのだ。それも下手の横好きではなく、一流派を作った。

余は画家になるんだ!

政事より絵画

1748(寛延元)年生まれの佐竹義敦が久保田藩当主になったのは、1758(宝暦8)年のことである。まだ子供だった頃に、父の急死を受けて殿様になった。

久保田藩は表高20万5000石だが、この時代は災難続きだった。飢饉が発生している上、秋田騒動という日本史上稀に見る経済事件のダメージを負っていた。この秋田騒動とは、久保田藩が銀と兌換できる藩札を発行したがために起こった取り付け騒動である。地域振興のつもりでやったことだが、結果的に藩札(久保田藩内では銀札と呼ばれていた)を持った者が交換所に押しかけて大量の銀が流出してしまった。

そんな中での少年藩主の登場だが、当の本人はいつまでも政事に興味を持たなかった。

義敦がのめり込んだのは絵画である。狩野派に手ほどきを受け、義敦はその才能を開花させた。しかし、彼の興味は伝統的な日本画に留まらなかった。秋田の殿様でありながら、何と西洋技法の絵画を学ぼうと考えたのだ。

エレキテルオヤジが伝えた西洋画法

その頃、秋田に一人の変人がやって来た。

彼の名は平賀源内。日本史に燦然と輝くエレキテルオヤジである。源内は鉱山開発の指導のために秋田を訪れていたが、その最中に小田野直武という武士と知り合う。直武は絵が上手かったから、源内は長崎で身につけた西洋絵画の技法を秋田の侍に伝授してみた。

これが結果的に大当たりする。直武はメキメキと腕を上げ、のちにイラストレーターとして重要な仕事を請け負うことになる。『解体新書』の図版作成だ。

17世紀以降、科学と絵画は切っても切り離せないものになった。

同時期のヨーロッパでは、様々な分野の学問が急発展した。天文学、物理学、熱力学、化学、生物学。さらに、それらの研究に必要な器具も次々開発された。17世紀から18世紀にかけて生きたオランダの科学者アントーニ・ファン・レーウェンフックは、顕微鏡を使って水中の微生物や精子を発見した。

が、当時は写真機というものが存在しない。発見した微生物を記録するには、自分の手で絵を描くしかない。研究対象が新惑星だろうとアフリカの動物だろうと東南アジアの植物だろうと、その研究家は遠近法が確立された絵画技法を身につけていなければならなかった。

そうした技術が、18世紀になって日本にも伝わってくるようになった。源内はそれを間接的ながら、上手に吸収した男だったのだ。

ひとときの奇跡

義敦は直武のパトロンであり、絵画の弟子でもあった。

源内の下で西洋絵画を学んだ直武は、それを君主である義敦に伝えた。源内、直武、義敦の三人が形成する不思議な関係により、久保田藩から「秋田蘭画」と呼ばれるジャンルが誕生する。

日本の伝統絵画の技法を残しながらも、大胆な遠近法を取り入れた秋田蘭画は「ひとときの奇跡」でもあった。義敦がヨーロッパ人から直接指導を受けていたわけではない。その伝達は常に間接的かつ部分的なものだった。にもかかわらず、いや、だからこそ秋田蘭画は和洋折衷の新ジャンルとしてこの世に誕生したのだ。ちなみに、画家としての義敦は「佐竹曙山」という号で活動していた。

忘れ去られる功績

が、秋田蘭画は継承されなかった。義敦も直武も、若くして落命したからだ。

義敦の長男の佐竹義和は「久保田藩中興の祖」として名高い人物で、同時に父同様絵画の腕に長けていた。しかし、義和が父の作った秋田蘭画を復興させることはなかった。故に、このジャンルは「ひとときの奇跡」として名前のみが細々と語り継がれた。

画家になった殿様の功績は、残念ながら現代では忘れ去られようとしている。

アイキャッチ画像:壽陽堂歳国『中村芝翫 楽屋之図』メトロポリタン美術館より

余は画家になる!平賀源内も絶賛した「絵描きの殿様」佐竹曙山
この記事をSNSでシェアする
この記事をSNSでシェアする