日本美術と富士山の物語、切っても切り離せないその関係に迫る!

日本美術と富士山の物語、切っても切り離せないその関係に迫る!

なぜ日本の絵師はこんなに富士を描いて来たのか

「田子の浦(たごのうら)ゆ打ち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(『万葉集』巻三)と山部赤人(やまべのあかひと)が詠ったように、歌の世界では万葉のころより富士山が頻繁に題材として取り上げられていることがよく知られています。
 
古来、美しく高く聳(そび)える富士山は、神仙が宿る山として崇められていました。それは、富士山が日本一の山であると同時に、コニーデ式火山の典型とも言える圧倒的に美しい稜線を誇っているからにほかなりません。また一方で、噴煙を上げる火の山として畏怖の念を抱かせる存在だったこともひとつの根拠となっていたことでしょう。

古代、富士山は噴煙を上げる山として認識され、それが燃える恋心に準(なぞら)えられて、『万葉集』をはじめ多くの歌枕として描写されてきたのです。しかし、富士山の絵については、実はいつごろから描かれるようになったのかあまりはっきりとしていません。恐らく平安時代には既に数多くの富士山の絵が描かれていたと考えられていますが、作品は殆ど遺されていないのです。P177-PH-3伊東深水『富士』 二曲一隻 紙本彩色166.3×163.7㎝ 昭和14年(1939)山種美術館蔵
 

現在確認できる最古の作品は何かと言えば、聖徳太子の行状を描いた『聖徳太子絵伝』です。漆黒の馬に乗り、富士山を飛び越えている場面でその姿が初めて確認できるのですが、これは恐らく超人的な聖徳太子の人物像をより強く印象づけるため、神山として崇められていた富士山を飛び越えさせるという荒業に出たのだと思われます。しかし、これはあくまでも聖徳太子の生涯を描く一場面としての描かれ方であり、富士山が単独で画題となったものではありません。富士山が独立した絵画として描かれるようになるのは、もう少し後になってからのことでした。 
 
かねてより畏怖の念を起こさせる神仙として認識されていた富士山は、室町時代の『富士参詣曼荼羅図(ふじさんけいまんだらず)』などによってより具体的な信仰の対象として、独立した姿で描かれるようになっていきます。また同時代、禅宗寺院を通じて水墨画が隆盛を極めるようになると、富士山は風景画として格好の題材となって行きます。その最たるものが、雪舟が描いたとされる『富士三保清見寺図』。三保の松原越しに富士山を描くというこの構図は、後の富士山画の世界に多大なる影響を与えることとなり、このイメージは繰り返し描かれることになるのです。
 
ちなみに、この時代に描かれる富士山画の多くはその頂部分が三つに割れる「三峰形(さんぽうがた)」になっています。これは現在にまで連なる図様の一形態ですが、これも富士山が信仰の対象であったひとつの証(あかし)とも言えるのです。つまり、「三」という数字が、観音信仰における三十三や、密教における「一心三観(いっしんさんがん)」「三密同体(さんみつどうたい)」のように、聖なる数として捉えられていたことと関係しています。
 
やがて江戸時代になると、富士講などの影響により富士登山が江戸庶民を中心に大流行。富士山をめぐる注目度はますます高まることとなり、富士山を描いた参詣図などが盛んに描かれるようになります。爆発的な高まりを見せる富士への憧憬(しょうけい)の念を背景として、あの有名な葛飾北斎による『冨嶽三十六景』や、歌川広重の『東海道五拾三次』は誕生することとなるのです。
 
時代を超え、ジャンルを超越して数多くの名作が描かれたことで、富士は日本を代表する山として人々に愛されることとなり、近代日本画の世界においても日本という国の象徴としてさまざまに描かれてきました。富士山がそこにある限り、これからも日本人の心の拠り所として多くの画家たちによって描き続けられることでしょう。

伊東深水『富士』

活版工となった後に、その画才を認められて絵師の道を歩むことになるという異色の経歴をもつ伊東深水(いとうしんすい)。美人画の名手として名高い鏑木清方(かぶらききよたか)門下生として、師匠に倣うかのように美人画の第一人者となった深水だが、版画作品や初期の作品には、浮世絵の影響を受けたと思われる作品も多い。本作も松の樹の配し方などに、その傾向が見て取れるのではないだろうか。

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