東大寺金剛力士立像・松林図屏風〜ニッポンの国宝100 FILE 3,4〜

東大寺金剛力士立像・松林図屏風〜ニッポンの国宝100 FILE 3,4〜

目次

日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。2017年は「国宝」という言葉が誕生してから120年。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

国宝100②_表紙

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は巨大彫刻のスーパースター、「東大寺金剛力士立像」と日本的水墨画の極地、長谷川等伯の「松林図屏風」です。

巨大彫刻のスーパースター 「東大寺金剛力士立像」

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奈良時代に創建された東大寺は、治承4年(1180)に平重衡(たいらのしげひら)による南都、奈良焼討ちで大仏殿をはじめ多くの堂宇が焼失し、南大門も失われました。19年後に再建された南大門に、大仏、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の守護神として安置されたのが、運慶作の2体の巨大な金剛力士立像です。

金剛力士は仏法を守護する神。古代インドの武器に由来する「金剛杵(こんごうしょ)」という法具を持ち、激しい忿怒(ふんぬ)の相で表現されます。寺院の門に一対で安置され、仏敵が寺内に侵入するのを防ぐ役割を担っています。

仁王とも呼ばれる金剛力士は、向かって右が口を開いた阿形(あぎょう)像、左が口をへの字に結んだ吽形(うんぎょう)像であるのが普通ですが、東大寺南大門では阿吽が左右逆になっており、しかも門の内側に向かい合わせに安置されているのが大きな特徴です。この左右逆の配置をはじめ、手足の構えや金剛杵の持ち方などは、日本に伝来した中国宋代の版画中の金剛力士像に一致するものが見つかっており、南大門と同じく宋文化の影響を受けていることが指摘されています。

従来、各像の作風から吽形が運慶、阿形は快慶の作とされてきましたが、昭和から平成にかけて行われた解体修理の際、像内から発見された文書により吽形は定覚(じょうかく)と湛慶(たんけい)、阿形は運慶と快慶がおもに担当したことが判明しました。運慶は、当時勢力を急拡大していた南都仏師の一派「慶派」の工房を主宰する棟梁であったため、製作総指揮者として2体の造像の全体を統括したものと考えられています。

両像は、建仁3年(1203)7月に造立が始まり、わずか69日という驚異的なスピードで造り上げられました。像高は優に8メートルを超え、修理の際に計った重量は阿形が約6.7トン、吽形が約6.9トンでした。

造像時は、平安時代が終焉し、鎌倉幕府の施政が始まったころです。台頭してきた武士による新しい時代の開始を告げるかのような力強い造形と迫真的なリアリズムは、時代の清新な息吹を敏感に感じとった運慶と、そこに集う一門の仏師たちが、エネルギーを結集して成し遂げた仏教彫刻の革新を今に伝えています。

国宝プロフィール

運慶・快慶・定覚・湛慶 東大寺南大門 「金剛力士立像」 吽形 阿形

建仁3年(1203) 木造 彩色 像高 吽形:842.3㎝ 阿形:836.3㎝ 東大寺 奈良(金剛力士の写真はすべて美術院)

東大寺南大門に安置される吽形と阿形の2体の金剛力士立像。鎌倉時代の初め、南都焼討ち後の東大寺復興の際に、運慶ら慶派一門によって造像された。日本の金剛力士像を代表する寄木造の巨像。

東大寺

人気ナンバー1国宝

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靄(もや)に包まれた松林の風景。墨の諧調(かいちょう)だけで描かれた「松林図屏風」は、しっとりした情緒と湿った空気の感触まで感じさせる、日本水墨画の最高峰と絶賛されています。描いたのは桃山時代から江戸初期にかけて活躍した絵師・長谷川等伯です。

等伯は天文8年(1539)、能登国七尾(のとのくにななお)に生まれ、若いころは絵仏師として活動しました。30歳を過ぎて上洛し、京の僧侶や千利休らとの交流を通じて人脈を広げます。そして、地方出身の無名絵師でありながら、朝廷や時の権力と深く結びついた名門絵師狩野永徳のライバルへとのし上がっていきました。

この当時、日本の水墨画家の正統は雪舟であるという認識が広まっていましたが、等伯は自分が雪舟から数えて5代目であると名のる「自雪舟五代」の落款(らっかん)を用いました。自分こそ日本の水墨画の正統だという、強烈な自負をもっていたのです。

「松林図屏風」は、50代半ば、画業のピークを迎えたころの等伯が描いたとされる畢生(ひっせい)の傑作です。静寂な詩情あふれる水墨画で、木々の合間を縫うように漂う靄、朝とも夕ともつかぬ朧げな情景の中に、遠くはかすみ、近くはくっきりと叢立つ(むらだつ)松林が描かれています。

日本の水墨画は、中国・宋末元初の画僧牧谿(もっけい)による、けぶるような大気と光の表現に多大な影響を受けていました。等伯も京都・大徳寺に伝わる牧谿作品を熱心に学んでいますが、松林図ではもはや模倣の域を超えた等伯独自の画境に到達しています。この松林の風景には、生まれ育った能登の海浜の記憶が投影されているのではないかといわれています。

これだけの名作でありながら、等伯がいつ、誰のためにこの絵を描いたのかは判明していません。松林は日本古来のやまと絵に描かれてきた画題ですが、「松林図屏風」のように大画面に松だけを墨一色で描いた水墨屏風は、これ以前には知られていません。屏風の紙継ぎや画面の連続の仕方にところどころ不自然な部分があることから、襖絵など障壁画の原寸下絵として描かれたものが、のちに屏風に仕立てられたのだという説もあり、多くの謎を秘めた名作です。

国宝プロフィール

長谷川等伯 「松林図屏風」

16世紀末 紙本墨画 六曲一双 各156.8×356.0㎝ 東京国立博物館(「松林図屏風」の写真はすべて Images:TNM Image Archives)

能登(石川県)出身で、京都で活動した桃山時代の絵師・長谷川等伯の代表作。六曲一双屏風の両隻に靄でかすむ松林を墨のみで描く。日本的情緒あふれる水墨画の傑作。

東京国立博物館

東大寺金剛力士立像・松林図屏風〜ニッポンの国宝100 FILE 3,4〜
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