国宝 三十三間堂とは?洛中洛外図屛風 上杉本とは?

国宝 三十三間堂とは?洛中洛外図屛風 上杉本とは?

目次

日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。2017年は「国宝」という言葉が誕生してから120年。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

国宝Vol5_表紙

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は千体の観音がひしめく国宝空間、「三十三間堂」とみやこの姿を活写する、「洛中洛外図屛風 上杉本」です。

仏像1032軀大集合! 「三十三間堂」

国宝_Vol5_ファイル9

平安時代末、5代34年間にわたって院政をしいた後白河法皇は、長寛2年(1164)、自らの住まいである法住寺殿の西側に蓮華王院の創建を勅願しました。私財を投じて建立したのは、後白河の妃、滋子の義兄にあたる平清盛。その蓮華王院の本堂は、内陣の柱間が33あることから、「三十三間堂」と呼ばれています。

三十三間堂が建立された平安後期は、仏教が衰え、災いが蔓延する末法の世が到来すると恐れられていました。皇族や貴族は死して観音浄土へ至ることを願い、その思いは大量の造仏寄進へと駆り立てました。寺院や仏像を建立し、徳を積むことは「作善」といわれ、これを行なえば行なうほど極楽浄土への往生がかなうと信じられたからです。

後白河法皇もまた、三十三間堂に丈六(高さ1丈6尺=4メートル80㎝ほどの大きさの像、坐像はその半分の大きさ)の中尊・千手観音坐像と、1000体もの等身大の千手観音立像の造仏を命じました。南北120メートルに及ぶ長大な堂内に、ひしめくように仏像が並ぶ特殊な空間は、後白河法皇の極楽往生を望む執念によって創建されたのです。

創建から85年後、鎌倉時代中期の建長元年(1249)に、蓮華王院の諸堂は火災によって全焼してしまいます。2年後には再建が開始され、15年の歳月を経て、本堂と中尊を含む仏像が創建時のままに再興されました。そのなかで現在、国宝に指定されているのは、本堂の建築と中尊の千手観音菩薩坐像、風神・雷神像、眷属(従者)の二十八部衆像。中尊の両側に500体ずつ、背後に1体(室町時代の補作)配された千体千手観音菩薩立像は、重要文化財に指定されています。

再建時、仏像製作の指揮をとったのは大仏師運慶の長男、湛慶でした。大量造仏のために、湛慶が率いる慶派だけでなく、院派、円派の仏師たちも製作に参加しました。建長6年(1254)に中尊が完成した際、湛慶は82歳。造立以来800年にわたって変わらぬ穏やかな尊顔で人々を見守る中尊は、湛慶の円熟した技の結晶であり、その掉尾を飾る名作です。

国宝プロフィール

「蓮華王院本堂(三十三間堂)」

文永3年(1266) 桁行35間 梁間5間 入母屋造 本瓦葺 妙法院 京都

平安後期に後白河法皇が法住寺殿に造営させた蓮華王院の本堂。「蓮華王」とは千手観音のこと。中尊の千手観音坐像をはじめとする仏像は、長寛2年(1164)に安置されたが、本堂と仏像の一部が焼失、鎌倉時代中期に本堂が再建された。

三十三間堂

都の名所を極める! 「洛中洛外図屛風 上杉本」

国宝_Vol5_ファイル10

応仁元年(1467)から10年続いた応仁の乱は、京の都の大半を焼き尽くしました。その爪痕は深く、焦土と化した京都が活気を取り戻しはじめたのは、15世紀末になってからのこと。明応9年(1500)には、途絶えていた祇園会が33年ぶりに復活します。その再開は、京の都が近世都市として再生した証でもありました。街の復興の立役者となったのは、「町衆」といわれる裕福な商工業者たちでした。とくに、彼らが暮らす二条通付近から南の下京の発展はめざましく、京都は一大商業都市として生まれ変わったのです。 

灰燼からよみがえった京都の姿が描かれたのが、洛中洛外図です。「洛」とは、平安京の原型となった中国・洛陽からとられた1字で、洛中とは京の都の市中を、洛外は文字どおり郊外を意味します。じつは都の景観は、洛中洛外図が登場する以前から描かれていました。まず、15世紀頃から、京の名所や風俗を描いた扇が贈答品として流通し、12カ月の風俗や行事を描いた「月次風俗図」といわれる屛風も登場。こうした先例をもとに、描かれた新しい都のイメージが「洛中洛外図屛風」です。

現存するものだけで100点以上といわれる洛中洛外図のなかで、国宝に指定されているのは上杉本と、江戸時代の絵師・岩佐又兵衛が描き滋賀の舟木家に伝来する舟木本の2点のみ。山形・米沢の上杉家伝来の上杉本は、もともとは13代将軍足利義輝が狩野永徳に注文したとされます。しかし完成を待たずに義輝は死亡。注文主のないまま永徳が完成させたこの屛風を、安土城築城の折に天下一の絵師として彼を重用した織田信長が、上杉謙信に贈ったのです。

自身も町衆であった永徳は、右隻にはおもに商業で活況を呈する新興都市としての下京を、左隻には武家や公家の邸宅のある京域の北に位置する上京(二条通以北)を配し、自らが生まれ育った京の町に生き生きと暮らす人々を約2500人も描き込みました。上杉本には、若き永徳が22歳から23歳にかけて、熟知する京の都をテーマに、絵師として、また町衆としての誇りをかけて描いた、理想の都の姿が活写されています。

国宝プロフィール

狩野永徳 「洛中洛外図屏風 上杉本」

永禄8年(1565) 紙本金地着色 六曲一双 各160.4×365.2cm 米沢市上杉博物館 山形

米沢藩主上杉家に伝わった洛中洛外図(京都市中と郊外を描いた図)の名品。桃山時代に狩野派を率いた絵師・狩野永徳が、20代前半で描いた。右隻には下京が、左隻には上京が描かれているため、それぞれ下京隻、上京隻と称される。

米沢市上杉博物館

国宝 三十三間堂とは?洛中洛外図屛風 上杉本とは?
この記事をSNSでシェアする
この記事をSNSでシェアする