神護寺 薬師如来・十便図・十宜図〜ニッポンの国宝100 FILE 87,88〜

神護寺 薬師如来・十便図・十宜図〜ニッポンの国宝100 FILE 87,88〜

目次

日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

神護寺薬師如来

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、平安初期彫刻の傑作「神護寺 薬師如来」と、文人画の最高峰「十便図・十宜図」です。

あふれる霊力「神護寺 薬師如来」

神護寺薬師如来

神護寺は、京都市街から西北の高雄山中腹に建っています。この地には、平安京遷都に功績のあった公卿・和気清麻呂を葬った和気氏の私寺・高雄山寺がありました。この寺は、日本で天台宗を開創した最澄が法華経の講説を行ない、空海が高野山を開く前に最澄らに結縁灌頂(密教の入信儀式)を行なうなど日本仏教、とくに密教の発展の重要な舞台となりました。
 
高雄山寺は、和気清麻呂が建立した神願寺(旧所在地不明)と天長元年(824)に合併して神護寺となります。神護寺の現本尊である薬師如来立像は、元来は神願寺の本尊として8世紀末に造られたと考えられています。神願寺創建には、奈良時代末の僧・道鏡が皇位を狙った際、和気清麻呂が宇佐(大分)八幡神の神託を得て道鏡を退けることができたので、八幡神の神願をかなえるために建立したという経緯があります。

薬師如来は、人々の病苦を除き安楽を与える仏として、奈良時代から信仰されてきた仏です。古代の人々は、病の原因は自らの罪科や他者からの怨恨であり、とくに権力争いで非業の死を遂げた者の怨霊は大きな災いをもたらすと信じていました。こうした思想から、薬師如来に罪を懺悔する儀式「薬師悔過」がさかんに行なわれ、災いを祓う強い力のある仏として、薬師如来が信仰されたのです。
 
神護寺の薬師如来立像は、榧材の一木から彫り出された体部がはちきれんばかりの量感をもち、素地仕上げで木肌をあらわにしています。その面貌は、一般的な薬師如来の柔らかな表情とは異なり、怒りを秘めたような厳しい表情で、見る者を畏怖させます。このような木彫仏は、神の宿る霊木から仏像を彫り出すことで霊力が宿ると期待した、日本古来の霊木信仰と結びついて造像されたと考えられます。
 
さらに、本像に見られるような体部に量感のある木彫仏の造形は、8世紀中ごろに中国から来日した僧・鑑真がもたらした唐の仏像様式に影響を受けているといわれます。神護寺の薬師如来立像は、渡来の造形が日本の霊木信仰などと結びつき、平安時代初期以降に隆盛をみる、木彫仏の頂点をなす傑作です。

国宝プロフィール

神護寺 薬師如来

木造 素地 8世紀末 像高170.6cm 神護寺 京都

神護寺金堂に安置される同寺の本尊。もとは奈良時代末から平安時代初期の公卿・和気清麻呂が創建した神願寺の本尊であったと考えられている。前腕部以外を榧材の一木から彫り出す。唇を引き結んだ厳しい表情と、圧倒的な量感のある体部の表現が特徴的な、平安時代初期木彫仏の代表作。

神護寺

池大雅と与謝蕪村の合作「十便図・十宜図」

神護寺薬師如来

「十便図」「十宜図」は、ともに江戸時代中期に文人画を大成したといわれる池大雅(1723~76)と与謝蕪村(1716~83)による合作の画帖。大雅が「十便図」10図、蕪村が「十宜図」10図を担当しました。江戸時代の文人画(南画)の最高傑作といわれています。

文人画とは、中国で高い教養をもつ官僚らが余技で描いた絵で、日本では江戸時代、中国文化に憧れた漢学者らが描きはじめ、職業絵師も制作しました。

絵のテーマは、中国の明代末から清代初期の文筆家・李漁(李笠翁)の「伊園十便十二宜詩」からとられています。この詩は、伊山(浙江省)の麓に別荘「伊園」を建てた李漁が、田舎の別荘での生活の便利さを詠んだ「十便」と、季節や時刻、気象によって変化する自然の美しさを宜しきものと詠んだ「十宜」からなるもの。詩の題名には「十二宜詩」とありますが、詩は10篇しか残っておらず、そのため絵も「十宜図」の題名で10図制作されました。
 

十便・十宜の両図とも、同一の材質と寸法の紙に、水墨と黄赤や藍を主体とした淡彩で絵が描かれ、画面の端に漢詩を記し、大きめの印を複数押しています。蕪村の「十宜図」中の「宜風図」の1点のみに明和8年(1771)の年記があり、十便・十宜の両図とも同年の制作とされます。おもに人の暮らしに視点を当てた大雅の「十便図」が先に完成し、蕪村はその後に自然を主題とする「十宜図」を制作した可能性が高いと考察されています。
 
絵を発注したのは、尾張国(愛知県)鳴海の下郷学海(1742~90)との説が有力です。学海は酒造を営み、俳句や絵画を好んだ裕福な趣味人でした。大雅と蕪村は同じ京都で活躍してはいたものの、親しい交流があったわけではありません。その二人を競作させるという大胆な試みによって、後世、日本の二大文人画家と称えられる両者の合作という、またとない貴重な作品が生まれました。
「十便図」「十宜図」は、太平洋戦争後に文学者・川端康成の所有となり、現在は川端の功績や作品を顕彰する川端康成記念会の所蔵となっています。

国宝プロフィール

十便図 池大雅 十宜図 与謝蕪村

紙本墨画淡彩 明和8年(1771)各10図 各17.9×17.9cm 川端康成記念会 神奈川

江戸時代中期、ともに京都で活動した文人画家の池大雅と与謝蕪村が合作した画帖。中国・明末清初の文筆家・李漁(李笠翁)が詠んだ「伊園十便十二宜詩」を画題として、大雅が「十便図」、蕪村が「十宜図」の各10図を描いている。

川端康成記念会

神護寺 薬師如来・十便図・十宜図〜ニッポンの国宝100 FILE 87,88〜
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