北斎の赤富士ができるまで。世界が驚愕した浮世絵に迫る!

北斎の赤富士ができるまで。世界が驚愕した浮世絵に迫る!

日本文化を代表する「浮世絵」は、日本にとどまらず、世界中に多くのファンを有しています。この影響力の理由のひとつは、浮世絵が江戸時代に大量印刷された木版画だったから。作品によっては数千枚と摺られた浮世絵は、19世紀に海を渡り、遠くヨーロッパにまで届きました。極東の小さな島国・ニッポンで、この高精細のフルカラー印刷を庶民が手軽に買って楽しんでいるという事実に、世界が驚愕したのです。

写真製版の技術が普及する以前、王侯貴族の宮殿や邸宅で、一部の人しか観ることを許されなかったダヴィンチやベラスケスの名画よりも先に、世界各地で多くの人々にイメージを共有されたのは、おそらく葛飾北斎(かつしかほくさい・1760-1849)の浮世絵ではないでしょうか。今回は、浮世絵の復刻を手がけるアダチ版画研究所ご協力のもと、北斎の代表作「赤富士」こと「凱風快晴(がいふうかいせい)」の制作をひもとき、世界をうならせた日本の文化と技術力についてご紹介したいと思います。

アダチ版復刻 葛飾北斎「凱風快晴」
葛飾北斎「凱風快晴」アダチ版復刻浮世絵

なお、浮世絵版画は、絵師・彫師・摺師の共同制作。出版までの流れを小咄風にご紹介したこちらの記事もあわせてご一読を。
【参考記事】浮世絵版画はどうやってつくられる?あの北斎の名作の原画が一枚も残ってないなんて!
浮世絵の分業制

むちゃくちゃ細かい! 山裾の点描

北斎が描いた「赤富士」の原画、つまり「版下絵(はんしたえ)」がこちらです。

葛飾北斎「凱風快晴」の版下絵
葛飾北斎が描いた「凱風快晴」の版下絵のイメージ。

これを元に、彫師・摺師が木版画をつくっていきます。ぱっと見、すごく単純そうな絵なんですが、厄介なのが、この山裾を埋め尽くす点描。気の遠くなるような数の大小の点が無数に打ってあります。この点描があるかないかで、絵の雰囲気が全然異なります。

もし、北斎が1cmの方眼紙にこの図を描いていたとしたら、概ね、下図のような感じ。北斎70歳。どれだけの集中力なんですか……。いや存外、北斎本人は鼻歌でも歌いながら、筆先でちょっちょっちょっとリズミカルに点を打っていたやもしれません。

北斎が方眼紙に絵を描いていたら
北斎が方眼紙にこの絵を描いていたら……

むしろ、この版下絵を渡された彫師の気持ちを考えてみてください。眺めているだけで頭がクラクラしてきます……。彫師は、この版下絵を山桜の板に糊で裏返しに貼り、透けて見える線を「小刀(こがたな)」と呼ばれる彫刻刀で彫っていきます。(つまり、北斎が描いた直筆の原画は、ここで木屑とともにこの世から消えてしまいます。)

彫師
彫師の作業風景。今で言うところのコピー原本である版下絵を板に貼り付けてしまうので、やり直しはききません。

かつて彫師を目指した北斎のこだわり

こんな職人泣かせの版下絵を描いた北斎。実は、版画の彫について、並々ならぬこだわりがありました。十代の頃に彫師の修行を積んでいたと伝えられており、後年、自分の作品の版木を彫る彫師に対して、「くれぐれも自分が描いた版下絵の通りに彫ってくれ」と図入りの手紙まで書いて念を押したという記録(飯島虚心『葛飾北斎伝』より)が残っているのです。

おそらく、かつて版木を彫る段階で、自分の描いた線が修正されてしまった(意図的だったかはわかりませんが)ことがあったのでしょう。この北斎のエピソードが物語るように、浮世絵の出来映えは、まさに彫師の腕にかかっていました。そしてそれは単に、版下絵を忠実に彫る技術にとどまらず、絵師の筆意を汲み取る能力でもあったのです。

当時はすべての印刷が木版でしたから、一言に彫師と言ってもそれぞれに得意分野がありました。瓦版などスピード重視の印刷物に対応する彫師もいれば、びっしり文字が並んだ書物の版木を彫るのが得意な彫師もいたわけです。さまざまな需要に応じた職人がいた中で、錦絵の制作を任される彫師というのは、当時トップレベルの技術とセンスをもつ職人でした。

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