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2019.10.13

日本刀の逸話5選。戦国武将から鬼伝説まで、祈りと願いの物語

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戦国武将も新選組も使っていた日本の武器の代表といえば日本刀。手打ちにしたのが36人だから、和歌の三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)にちなんで「歌仙兼定(かせんかねさだ)」と名付けられた日本刀があったり、謀反の一族を討伐した場所に由来して「狐ケ崎(きつねがさき)」と名付けられた日本刀もあったり。

こんな恐ろしい(?)逸話ばかりだと「日本刀は怖い」というイメージを持ってしまうのも仕方がありません。
しかし三種の神器に「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」があるように、日本刀は昔から信仰の対象でもありました。病気平癒に子々孫々の繁栄。時に人は日本刀に向かって祈り、願いを込めてきたのです。
そんな人々の思いが籠もった日本刀を紹介します。

枕元に置いたら病気を治した? 『太刀 銘 光世作(名物 大典太)』

時は豊臣秀吉全盛の時代。前田利家の娘、豪姫が原因不明の病にかかってしまった時のことです。秀吉は病が治るようにと秘蔵の大典太(おおでんた)を前田家に貸し、それを豪姫の枕元に置いたら、なんと病は快方へ。

しかし利家が大典太を秀吉に返したところ、豪姫の病は再発してしまいました。再び大典太を貸してもらうと病は治り、返すとまた病に。借りては返しを3回繰り返した後、秀吉から正式に大典太を拝領することとなったのでした。
以後、大典太は前田家の家宝となったというのです。

別の資料には前田利常が徳川秀忠から病気平癒のために借りたという説もありますが、いずれにせよ大典太には不思議な力が宿っているのかもしれません。

所蔵先:公益財団法人前田育徳会

子々孫々までの守護を祈った 『太刀 無銘 光世作(ソハヤノツルキ)』

大典太と同じ筑後国の刀工、三池典太光世(みいけでんたみつよ)が作刀したと伝わり、坂上田村麻呂が持っていた刀の写しであると刻まれたこの刀は、徳川家康が愛用していた日本刀のうちの一振りです。

家康はこの刀を肌身離さず持ち、寝る時も護身用として枕元に置いていたと伝わります。家康は死の数日前、自らの墓所をまずは久能山にするように命じ、ソハヤノツルキをこの墓所で、西に向けて置くように遺言したのです。大坂の陣以降いまだ不穏な動きをしている西に向けて、という意味合いでした。
また「この刀の剣威によって、子々孫々まで守護してほしい」と祈念したといいます。

その後ソハヤノツルキは久能山東照宮で御神体と同等に扱われる存在となり、現在も久能山東照宮に所蔵されています。
もしかしたら徳川の代が250年以上続いたのも、ソハヤノツルキが一役買った可能性も無きにしもあらず?

所蔵先:久能山東照宮

この短刀を持っていれば負け知らず 『短刀 無銘 貞宗(名物 物吉貞宗)』

「この短刀を帯びて戦に出ると必ず勝てるので、物吉と名付けた」と資料に残されている短刀です。短刀は戦のための道具としての役割の他に、守り刀としての役割もありました。中でも物吉貞宗(ものよしさだむね)は戦で負け知らずと言われるほどの守り刀だったようです。

徳川家康の愛刀と知られていて、その前は豊臣家にあったと言われています。関ヶ原の戦いの翌年に豊臣秀頼から贈られた説と、それよりもずっと前から家康が持っていたという説があります。もしも豊臣家がこの短刀を手放していなかったら、負け知らずの戦をしていたのは徳川家康ではなかったかもしれませんね。

所蔵先:徳川美術館

鬼切り伝説がいつからか厄除けに 『太刀 銘国綱(名物髭切・鬼切)』

「髭切(ひげきり)」と名前のつく刀には様々な逸話が残されていますが、北野天満宮が所蔵する髭切に残されている伝承のひとつに「マラリア予防祈願」があります。

髭切にはそもそも鬼を斬ったという伝承があります。鬼とは一説には流行り病のことを指すとか。そのためいつの頃からか、この刀の下をくぐれば「おこり」(今でいう「マラリア」)にかからないという伝承が生まれたようです。

当時の所有者であった最上氏がこの刀を伴って参勤交代へ向かうと、髭切の入った箱の下をくぐる民衆が押し寄せたとか。大名よりも刀の方に人気が集まって、主君もちょっと羨望の眼差しを送ったかもしれません。

所蔵先:北野天満宮

疫病祓いで町内巡行 『陰陽丸』

神社へ奉納される日本刀は数多く、なかでも人が持つのはとうてい難しいと思われるほどの大きさの太刀「大太刀」が奉納されることが多くあります。

熱田神社に奉納され、鎮守の宝刀として伝来してきた『陰陽丸(いんようまる)』は、全長3メートル68センチという巨大な大太刀。人が持ち歩くには大変な大きさです。
しかし、この大太刀を持ち出す事態が起きました。安政5年(1858年)のコレラ大流行です。5月に長崎に入港した米国船ミシシッピ号から上陸したコレラは7月には江戸へと伝播し、8月に全国で大流行。江戸だけでも10万〜26万人の死者が出たといわれています。

江戸では神輿や獅子頭が疫病除けの行事をしていましたが、熱田神社のある地域では『陰陽丸』がふさわしいと考えられたようです。3メートルを超す大太刀が、コレラの疫病除けとして町内を巡行したのです。

当時、コレラは妖怪の仕業であると信じられ「狐狼狸(ころり)」と呼ばれていました。もしかしたら『陰陽丸』が妖怪を退治した、なんていう人もいたかもしれませんね。

所蔵先:熱田神社(東京都神社庁)

それぞれの時代によって、いろいろな逸話を持っているのが日本刀。武器であるのは間違いありませんが、時には信仰の対象になり、時には政治的な駆け引きの道具として贈り物になったり、一概に怖いだけの存在とは言い難いものです。
美術館や博物館で日本刀を見た時、ただ怖いと思うのではなくその刀にまつわる逸話などを知ると、日本刀の見方が変わるかもしれません。