Gourmet
2020.04.20

お代は米一年分!?見栄と妄信が交差する初カツオフィーバーに沸く江戸の初夏

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「君が何を食べているのか言ってみたまえ?君が何者であるかあててあげよう」(『美味礼賛』)と述べた仏の美食家・ブリア=サヴァラン。「“走りの鰹”に心が騒いで居ても立ってもいられない」と述べると、彼は「君は間違いなく江戸っ子だね」とこたえただろうか。初夏の初鰹に沸く、江戸市中をのぞき見してみると……。

江戸ごよみ東京ぶらり 皐月候

“江戸”という切り口で東京という街をめぐる『江戸ごよみ、東京ぶらり』。江戸時代から脈々と続いてきた老舗や社寺仏閣、行事や文化など、いまの暦にあわせた江戸―東京案内。初物好きで知られる江戸っ子ですが、今の季節に到来する初鰹への狂騒ぶりは並外れたものでした。江戸っ子がなぜ初鰹や初物にこだわったのか、また川柳に見る初鰹フィーバー、日本橋にあった魚河岸・魚市について、ご案内します。

お触れごときで初物はやめられない、江戸の初鰹狂騒曲

「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」と詠んだ、江戸初期の俳人・山口素堂。季語が重なるものの、いや重なるからこそ、爽やかな初夏を強く感じさせる名句として知られています。この季節(旧暦では四月)の初鰹は、江戸っ子が待ちわびたお楽しみでした。旬とはいえ盛り(さかり)になれば値も安くなると言うのに、走りと呼ばれる初物を手に入れるために江戸の人びとは金策に走りまわります。

江戸市民がこよなく愛した初鰹と大江戸の象徴・日本橋が組み合わさった、まさに「江戸自慢」。(歌川広重・歌川豊国『江戸自慢三十六興 日本橋初鰹』/国立国会図書館デジタルコレクション)

初鰹はもちろんですが、なにかと初物へこだわった江戸っ子。「初物を食べると75日長生きする」と信じられていたこと、さらには人よりも先に食べたと自慢したい江戸っ子の見栄がそうさせたようです。しかし盛りのおいしいものよりも、走りの未熟なものを高値で買い求めるために、当然ながら農家は未熟な野菜をどんどんと出荷するようになります。そんなことが続いたために、寛文12(1672)年に幕府は魚介、鳥、野菜、果物などの出荷時期を定めます。時期より先の出荷については処罰をするとしたものの、その後も同じような禁令を出していることから、“初物喰い”はお触れぐらいでは収まるものではありませんでした。

北条氏の逸話から誕生、武士に好まれる勝魚(かつお)

人びとの間で鰹が好まれるようになったのはいつごろなのか?兼好法師(鎌倉時代末期~南北朝時代に活躍)が書いたとされる随筆『徒然草』には、「鎌倉では鰹をまたとないものとしているが、昔は上等な魚ではなく、高貴な人たちの食膳にのぼることはなかった。でも今では、そんな鰹が上流なひとたちの食膳にまでのぼっている」と、あります。鎌倉時代末期以降からは、人びとが好んで食べていたことがわかります。なんにでも難癖をつけたがる(失礼!)兼好法師は、下魚だった鰹を嬉しがって食べる風潮を苦々しく思っていたようですね。しかし江戸のころは鮪も脂が多くて猫も食わぬ下魚と言われたことを考えると、味の好みは時代によって変わっていくものなのでしょう。ちなみに兼好法師のお好みは鯉だったとか。

『江戸じまん』所収の「魚鳥角力競」と頭書のある見立番付。江戸時代には、美人、名所、温泉、日常の総菜まで、さまざまな事柄を相撲の番付に見立てて楽しんだ。初鰹のさしみは、世話人として別格扱いだったことが見てとれる。行司には、兼好法師のお好きな鯉料理も。(『魚鳥角力競』/都立中央図書館特別文庫室所蔵)

江戸時代初期に書かれた、小田原北条氏に関わる史記を編纂した『北条五代記』には、天文6(1537)年夏、北条氏綱(うじつな)の船に鰹が飛び込み、氏綱がこれを「勝負にかつうを」として喜んだ、という逸話がみられます。そしてこの後の合戦に北条氏が勝利したことから、出陣前に鰹を食すことが吉例となりました。北条氏の政策や方針を踏襲した徳川家康が、鰹を縁起のいい魚としたのは、うなずけること。そんなこともあってか、江戸では武家はもちろん町人の間でも早い時期から鰹の人気が高まっていきます。

白米が一年食べられるほど値が張った初鰹

「女房を 質に入れても 初鰹」、「初鰹 りきんで食って 蚊に食われ」、「寒いとき お前鰹が 着られるか」、など江戸っ子の初鰹フィーバーを描いた川柳は数多く残っています。蚊帳から女房の着物まで、冗談とはいえ女房すら、質入れしても食べなければおさまらなかった初鰹。家財を質入れして初鰹の喜びを味わったあとは、わかっちゃいたけど質草(しちぐさ*質入れ品)を受け出すことができずに、季節になって蚊帳がない着物がないとあたふた騒ぎだす。ああ、なんと江戸っ子らしい姿でしょうか。とはいえ、初物のなかでも初鰹は特に値の張るものでした。江戸の風俗史『守貞謾稿』によると文政のころは二両や三両したこと、山東京山(山東京伝の弟)の随筆『蜘蛛の糸巻』にも初鰹1本三両だったと記されています。

長屋のおかみさん達に囲まれて鰹をおろす粋な初鰹売り。右側でお皿を差し出している女性の着物の「寿の字海老」模様(市川団十郎を表す)など、それとなく歌舞伎の雰囲気をとりこんでいる。*冒頭使用(三世歌川豊国『卯の花月』三枚もの部分(真ん中など)/都立中央図書館特別文庫室所蔵)

文化・文政のころは、一両がおおよそ6000文。当時は、そば1杯が16文、酒1升が250文、米1石(米俵2.5俵*150㎏/江戸末~明治ごろ成人1人あたりの年間米消費量)7000文だったので、初鰹がいかに破格だったかがわかります。鰹1本で米1石以上とは、ちょっとやりすぎ江戸の人!と言いたくもなるもの。見栄より合理性を重んじる京坂では、江戸ほど初鰹の盛り上がりはなかったようです。

日本橋の魚市で仕入れた初鰹を担ぎ売り声をあげるぼてふり。橋を渡る女性や通りをゆく男性が気にしている様子も。山口素堂の句も記されている。(『東都名所図会』一部/国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸で商いをする大坂をはじめ、伊勢松坂や近江八幡の江戸店(えどだな*本店は出身地に、江戸は支店扱い)では、稼いだ金を国元(くにもと)に送り、またお国の風習や習慣を堅持していたために、初鰹への関心はさほど高くはありませんでした。もともと江戸の習慣になじまず、初物騒ぎを冷めた目でみる伊勢商人が気に食わなかった江戸っ子。「初鰹 切り身で買うは 伊勢屋なり」、「伊勢町を 黙ってかける 初松魚(はつかつお)」など、初鰹は丸ごと買うもんだ、とか、ぼて(魚の担ぎ売り)だって伊勢商人が軒を連ねる町では売れないからと売り声もあげないよ、など野次りまくった川柳を残しています。

回遊魚ゆえの味の差が生んだ、江戸の刺身と土佐のたたき

合理性や実を取る京坂ですが、初鰹が盛り上がらなかったのは値段だけのことではなく、回遊魚ゆえの味の差も影響していたのかもしれません。サバ科の回遊魚である鰹は、黒潮にのって2、3月ごろに九州西南にやってきます。土佐を経て紀州沖にかかるあたりまでは、脂がのりきっていないため刺身で食べるには物足りなさがある。それが伊豆半島を巡り相模湾に入ったころには、刺身にちょうどよい脂のりになって、江戸市民が狂喜乱舞する初鰹の味へ。

皮つきの身をさっと炙って焼き霜にした鰹を重ね切りにして大根おろしやあさつきなどの薬味をちらす「鰹のたたき」。皮目の香ばしさやむっちりした鰹のたたきには、さっぱり辛口な土佐の酒があいますね。

当時は近海物の魚を食べていたでしょうから、京坂では刺身で食べるほど初鰹がおいしいと感じられなかった。だからこそ土佐では、あっさりした鰹を炙って香ばしさを加えた「たたき」が流行したのでしょう。東西問わず脂の乗った鰹の刺身が食べられるようになった今でも、関西圏では鰹といえば「たたき」を思い浮かべるひとのほうが多いのではないでしょうか。

おまけ二十四節気、5月は立夏と小満

最後に江戸市民の暮らしに寄り添っていた暦・二十四節気(にじゅうしせっき)についてもご案内を。2020年の皐月こと、5月の二十四節気は5月5日の「立夏(りっか)」と5月20日の「小満(しょうまん)」です。

5日の「立夏」は、春分と夏至の中間にあたり、この日から立秋までが暦のうえでは夏となります。新緑がまぶしい、爽やかな晴天が続くころ。豊作を願う田植えの神事なども全国各地で行われます。20日の「小満」は、草木などが成長して生い茂るさまを言います。秋に撒いた麦がそろそろ実りを迎え、田植えの時期がはじまります。

武士から庶民まで誰もが盛り上がり、それをネタに俳句をひねり川柳を作る、食べても食べなくてもキャッチーな初夏の風物詩・初鰹。見えないウィルスのために、なんとも心もとないご時世ではありますが五月晴れの空の下、江戸のひとにならって暦を生きる楽しさを身につけようではありませんか。

江戸ごよみなのですが、冒頭とともに仏のブリア=サヴァランの格言で締めます。「食卓の快楽はどんな年齢、身分、生国の者にも毎日ある。他のいろいろな快楽に伴うこともできるし、それらすべてがなくなっても最後まで残って我々を慰めてくれる」(『美味礼賛』より)。

締めた後に蛇足ですが、今宵は江戸っ子にならって鰹の刺身に慰めてもらうことにします。

江戸的に楽しむ5月の東京案内

江戸時代、日本橋には魚河岸があり大江戸の台所を支える魚市が開かれて日々賑わっていました。記事内で紹介した『東都名所図会』にも描かれていたように、魚市で仕入れた鰹を担いだぼてふりも走り回っていた日本橋。大正12(1923)年の関東大震災後に築地に移り、そして平成31(2018)年に豊洲へと移転した魚市。日本橋魚河岸・魚市のあった場所には記念碑が立っています。ビジネス街として発展してきた日本橋に残る江戸の記憶、日本橋を訪れる際には魚河岸跡にも立ち寄ってみてください。

日本橋魚市場発祥の地
東京都中央区日本橋室町1-8 乙姫広場

書いた人

和樂江戸部部長(部員数ゼロ?)。江戸な老舗と道具で現代とつなぐ「江戸な日用品」(平凡社)を出版したことがきっかけとなり、老舗や職人、東京の手仕事や道具や菓子などを追求中。相撲、寄席、和菓子、酒場がご贔屓。茶道初心者。著書の台湾版が出たため台湾に留学をしたものの、中国語で江戸愛を語るにはまだ遠い。