Gourmet
2020.09.05

冴えない男たちのメシがブランドになるまで。なぜB級グルメは定番になったのか?

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まだ東京が今よりもずっと汚かった1970年代の中頃。夕暮れの新橋に気取ったやつなど、一人もいない。つい数年前まで、闇市のままだった駅前広場のあたりには、ようやく話がついたのか下の方を白い格子の壁が覆うビルになった。それでも、ガード下のほうに回れば風景は相変わらず。

広場には早足で改札を目指す者もいれば、たむろする者も。ドブねずみ色のスーツで煙草を吸いながら家路につく者。今日はどこの居酒屋に入ろうかと相談する者。麻雀の約束を家族に電話でどうやって誤魔化そうかと考えあぐねている者……。

「なあ『シクラメンのかほり』聞いた?」
「最近のじゃ『襟裳岬』のほうが好きだな」
「映画でも見ようか」
「今週の『ぴあ』持ってる?」

煌びやかな胸をときめかせるようなものは、どこにもない。ただ、今日一日をどのように締めくくって、その余力で次の日曜日まで過ごそうか。そんなことで、頭の中はいっぱいだ。景気もたいしてよくないが、毎日定時に椅子に座っていれば、まだウチの会社は給料を払ってくれそう。いわば給料はガマン料。

あの頃、牛丼は高かった

そんな薄汚れた雑踏の中に。これまた、薄汚れた若者が一人。若者らしく履いているのは、当世流行中のジーンズ。さすがに、今じゃあ履いてないけれども昨年あたりまで、時代おくれのベルボトムジーンズを手放さなかったようなタイプ。かといって「やっぱり14オンスデニム使用のストレート、リーバイス501が最高だね」と聞いてもなんのこっちゃと意に返さない。なんとなく、大学近くの安い店で売っているのがストレートなジーンズだったという具合だ。

広場の隅でポケットにから取り出した、折りたたんだ封筒の中身をもう一度確認する。

かつては牛丼とライスを注文して二杯分を腹に流し込むのが貧乏学生のテクニックだった

千円札と五百円札が数枚と小銭が少し。朝から近くの雑居ビルの床を磨いて、窓を拭いた結果がこれである。

1973年のオイルショックをきっかけにインフレーションは加速し
1974年に入ると日本の物価の異常な物価高騰が起こっていた。「狂乱物価」といわれる現象である。
物価の高騰と共に賃金も上昇した。春闘での賃上げ率は1973年で20%、1974年で33%と上昇している。
アルバイトでも日給2000円が3000円になったり、時給250円が400円とぐんぐん上がっていた。

でも懐に入るお金は増えても物価もあがっているわけだから、学生の貧乏暮らしは変わらない。
頭の中で一の位まで計算する。あと何日バイトがあるから総額はこれくらい。そこから、映画代と本代……。

さもしい計算をすれば腹が減る。そうだ、とにかく腹ペコなのだ。大学で真面目に授業を受けていても、下宿で寝転がっていても、サークルの部室にたむろしていても。いつでもどこでも、必ず腹が減る。そんな時に、胃袋を満たすには金がいる。そのために、暇な時間をいくばくか犠牲にしてバイトするのはやむを得ない。せっかくバイトしてるのだから「今日くらいは奮発するぞ」と、拳を振り上げてもバチはあたるまい。目指すのは、駅近くの角のところにある店。オレンジのテントに「早いうまい安い」の文字が躍る店。

そう、今日、オレが食べたいのは吉野家だ……。

B級グルメ好きなら知っておきたい「B級グルメ宣言」

「あの頃は吉野家の牛丼が並盛り一杯280円。バイトの時給が250円だから、今の感覚でだいたい900円くらいする高級品だったんだ」

もはや遙か昔になった出来事を、思い出すように語るのはフリーライターの田沢竜次。「B級グルメ」という言葉を生み出した男である。

「さすがに新しい食い物屋を探すのは疲れたよねえ……居酒屋はいくけど」

1953年東京生まれの東京育ち。年齢を重ねれば人は保守的になりがちなもの。それでいて「疲れた」とはいいつつも、探求をやめる気がなさそうな情熱を感じる。

もともと売られていたものにはオビがあり「B級グルメの逆襲」と書かれていた

田沢が「B級グルメ」という言葉を生み出す契機となったのが、かつて主婦と生活社から刊行されていた月刊誌『angle』である。『angle』は当時刊行されていた『ぴあ』や『シティロード』に続いて1977年に刊行された情報誌であった。後発である『angle』が、先達とちょっと違ったのは「ちょっと冴えない若者が読者層だった」ことだという。そんな若者たちに受けるのがラーメン、牛丼、カレー、定食といった当時は、まったく日陰の扱いの日常のグルメ情報だった。

そんな雑誌で田沢はラーメンや牛丼、定食屋。それに屋台や立ち食いの焼き鳥屋なんかを巡っては記事を書いていた。

単に仕事としてではなく、そうした店に田沢はずっと魅せられていた。

田沢が「永遠のバイブルとして、大事にしている」として挙げるのが『ショージ君のさあ!何を食おうかな』である。
マンガ家・東海林さだおが1975年6月に平凡社から出した食のエッセイ。
田沢は、この本を「『東京グルメ通信』の原動力にもなった」という。

今なお現役の東海林さだおの独特のユーモアに溢れた文体は、食がテーマになるととにかく光る。
伊丹十三の映画『タンポポ』の冒頭で登場人物が読むラーメンの話なんかはよく知られているところ。
(なお、このラーメンの話は『ショージ君の男の分別学』に収録されている)

それをバイブルとする田沢は機会があれば食について書こうとしていた。

「1978年にある官庁で1年間のバイトをしてた時に臨時職員の組合活動をしていたんだ。
それで組合の機関紙に、霞ヶ関の官庁食堂のランチ食べ比べという特集を書いたんだけど
ふだんは組合の機関紙を読まない職員やバイトたちにも大好評だったねえ__」

まだ脚光の浴びていなかった食に情熱を燃やす田沢が『angle』という書く場に巡り会ったのは
歴史の必然というべきなのかもしれない。

こうして多くの店をめぐった田沢の連載が『東京グルメ通信』のタイトルで単行本になったのは1985年11月。この時、冒頭に「B級グルメ宣言」を掲載し、本のオビにこう記した。

B級グルメの逆襲

そんな田沢の記した「B級グルメ宣言」は、極めてラディカルな思想だ。

 
この本は、氾濫するグルメ状況への“戦闘宣言”である。
そして、志を同じくする者必携の“食いしん坊手帳”でもあるのだ。

尖った一文から始まる「B級グルメ精神」は次のように記されている。

 
一つめは、腹ぺこ精神である。
二つめは、限られた予算で最大の効果をあげる食の知恵である。
三つめは、恐怖感である。
四つめは、権威にびびらないことである。
五つめは、細部へのこだわりである。
六つめは、歩くことである。
七つめは、脱ブランド、脱ファッションに徹することである。

その元で田沢は読者に呼びかける。

 
今一流のレストランやビストロや割烹や天ぷらの老舗が消えてしまったとしても、小生は少なくとも生きてゆけるのである。
 
だが一方、この東京から、立ち食いそば、定食、牛丼、回転寿司、大衆酒場といった店々が消え去ったとしたら、小生は少なくとも生きてゆけない。
 
それほどまでに生活に密着しているのにもかかわらず、それらはグルメの世界からパージされ続けてきた。
 
だからこそ、それはここB級グルメの世界で浮上する権利があるのであり、それは決して“ひがみ根性”の選択ではないのだ(少しあるけどサ)。

許すな!!B級グルメのブランド化現象

21世紀の今ではB級グルメといえば、ひとつのジャンルである。コロナで厳しくはなっているが赤羽や京成立石あたりは週末ともなれば「大人の週末」気分で電車を乗り継いでやってくる異邦人でどこも満員。赤羽にある『孤独のグルメ』の1エピソードのモデルになった、朝からやってる居酒屋なんて行列である。

数年前、長く赤羽に暮らす知人に尋ねてみた。

「あんなに観光客が多くて、地元の人はどこで飲んでるのさ」
「それがねえ……最近は、十条に避難してるんだよ」

 
なるほど、赤羽を凌駕するディープタウン十条であれば、訪れる人も少なかろう。そう思ってたら、最近は事情が違う。

「十条も、わざわざ飲みに来る人が多いんだよね」

一種のブランド化である。
今ではブランド化したB級グルメをあちこちで見かける。酒屋の店先の粗末なスペースで安酒をあおる角打ちも、今ではどこかオシャレな雰囲気を帯びている。

山谷も最近はサブカル女子がやってくるお店ができる時代である

田沢と話していて、もっとも変わったと思ったのは山谷である。

日雇いの仕事を求める労働者向けの簡易宿泊所が並ぶドヤ街。
ボクが記憶する初めて、山谷を訪れた時の風景と今はまったく違う。かつての南千住駅は色でいえば灰色。線路を越えて明治通りに渡る歩道橋の壁にはアジビラがいっぱい。
おまけに歩く道も注意される。もう90年代で金町戦の騒然とした状況はなかったが、警察・ヤクザ・対立党派などに絡まられないようにドキドキしなくてはならなかった。

でも、山谷も今では味のある下町の色のほうが強い。わざわざ、カップルや女性同士が飲みに来る店なんてのもできている。

田沢がB級グルメという言葉を思い至った頃、まだそんな明るく楽しい世界はなかった。

「あの頃って、どうしようもなく不味い店ってあったよねえ」

1980年代。まだ、チェーン店は少なかった。どこの街にもあるのは、個人経営の定食屋や中華料理屋、立ち食い蕎麦屋。今では、そうした店はノスタルジックな雰囲気で人気を得ているわけだが、当時はそんな概念はない。安くて盛りも多くて美味い店もある一方で、どうしてこの味でやっていけるのだろうという店も当たり前にあった。限られたグルメを堪能できる人を除けば、みんな腹を満たそうと仕方なく街場の凡庸な店を使っていた。だから、ちょっとでも光るメニューのある定食屋なんかの情報は大いにウケた。

先日閉店したキッチン南海には靖国通りまで延びる行列が

なにがしか用があった時に降り立った駅で、腹を満たそうと思った時に「ああ、なんかオススメの店が載ってたな」と思い出せば、同じ金額で少しでも満足をすることができたのだから。ボクの手元の『angle』の別冊号「東京いい店安い店」がある。奥付を見ると「昭和55年6月30日 第一刷発行 昭和56年6月20日 第12刷発行」と記されている。単なる増刊枠にも関わらず少なくとも12回も版を重ねているのは、そんな需要があったからだと思う。

バブル時代にもウケてたB級グルメ

 
かくして、この本を通じてB級グルメは広く世界に羽ばたいていった……わけではない。なぜなら、そんな概念が存在することに気づくほど市民社会は成熟していなかったのである。

最初に、現在のようなB級グルメが認識されたきっかけとして田沢が挙げるのは講談社から1982年に刊行された山本益博の『東京・味のグランプリ200』だ。落語や料理評論で知られていた山本による、この本はグルメのあり方を変えた一冊ともいわれている。

今では当たり前の評価基準を示した上での格付けを初めて行ったからである。そして、そこでは多くの高級な寿司屋や割烹と並んで、ラーメン店が取り上げられていた。それまで、グルメ本といえば高級店や修業を積んだ名料理人のつくる素晴らしい料理を紹介するもの。既にテレビでも芸能人が料理を紹介する番組は存在していたが、たいていは5分か10分枠の高級店を紹介するものしかなかった。

それまでも、今でいうB級グルメは多くのメディアで取り上げられていた。
田沢によれば、1970年代半ばにはスポーツ紙や夕刊紙ではB級グルメの話題はたびたび取り上げられていたという。

でもそれはあくまで、冴えない日常の飯扱いだった。
おおよそメディアが取り上げる価値がないと思われていたものを、ハイソな立ち位置であるはずの山本が、高級店と同じ表基準で論評する。それ自体が時代を塗り替える出来事だったのである。

北九州市は黒崎にある現役の大衆食堂

そして、田沢の本が出た頃新たな動きがあった。1986年に始まった文藝春秋の編集者だった里見真三の企画『B級グルメ』シリーズの登場である。里見は既に故人なので、話を聞くことは叶わないが、山本の本が出た頃、里見も既に同様の企画を構想していたようだ。田沢も参加し1986年3月に刊行された『ベスト オブ ラーメン』を皮切りに翌1987年3月に刊行された『ベスト オブ 丼』 。紹介するメニューを原寸大サイズで掲載するシリーズは、その後文春文庫ビジュアル版へと移行して、寿司や蕎麦へとテーマを拡げていった。

時代はプラザ合意を経てバブル景気へと突入する時代。華やかかつ、お金を浪費することが美徳であったはずの時代に、当たり前のメニューを掲載したシリーズは大いにウケたのだ。

「それによってB級グルメが定着したのでしょうか」

 ボクの問いに田沢は首を横に振った。そんな胎動期を経てB級グルメを定着させたのは、意外な雑誌だった。

「B級グルメは『Hanako』で定着したんだ……」

『Hanako』は今も続いているマガジンハウスの女性向け情報誌である。創刊して間もない頃、田沢は編集部に売り込みにいったことがある。その時、応対してくれた創刊編集長の椎根和が語ったのは、想定する読者のことだった。首都圏に住んでいる26〜27歳女性。年2回は海外旅行へ行き、ブランド物を思い切って買うけれども、お得情報にも敏感で貯蓄もする、キャリアと結婚だけではイヤだと考えている……そんな女性像が好むのは網羅性のある誌面だった。様々な街や趣味をテーマに、ページの隅から隅まで情報を詰め込む。そこには、ちょっと特別な時でなければ足を踏み入れることを躊躇する店もあれば、気軽に入れる当たり前の店もある。

こんなメニューを掲げた食堂も少なくなった。ちなみに、ここに書かれたメニューは出て来ない

一つ例を挙げてみよう。『Hanako』1989年5月25日号の特集は「六本木バイブル」。六本木を16のエリアに分類し紹介する店舗の数は飲食店だけで181店舗。カラヤンも立ち寄ったと話題になったドイツ料理店「ドナウ」や「30代のカップルが客層の中心という大人の店」イタリア料理の「ボルサリーノ」もあるかと思えば、深夜に食べるアイスクリームの危険な美味さを世間に教えたことで今も語られる「鳥居坂ガーデン」にあったハーゲンダッツショップまで。バブル景気まっさかりの時期にありながら、安くて美味い店の情報もやたらと目立つ。

「バブルの頃は高級なフランス料理店に詳しい人が持てはやされていたように思うでしょう。そうじゃない、本当にモテたのは美味しいラーメン屋を知っている男だったんだ」

着飾る男女も安くて美味いを好んでいた

  
ボクが数年前には『1985-1991 東京バブルの正体』(マイクロマガジン社)を書いた時に取材のために、当時の六本木をよく知る編集者と歩いたことがある。

「ここには、ディスコがあって……あっちには裏カジノが……」

若かりし頃の思い出と共に、かつての賑わいを教えてくれる老編集者がもっとも懐かしがったのは、意外なところだった。東京ミッドタウンから道路を挟んで、天祖神社のほうへ通りを一本裏へ入ったあたり。今も一軒の廃墟がある。そこは「大八」という名前のラーメン店だったところ。バブル時代、既に廃墟然としていたカウンターだけの店だった。そんな、バブル景気の雰囲気とは真逆の店にはいつも、華やかな衣装で身を包んだ男女が、遊び疲れて腹を満たそうと行列していたという。

いくら狂乱のバブル景気の時代でも、本質的に人が好んだのは、いつもの味、そしてちょっとでも安くて美味しいものだった。それは都会に暮らすオシャレな女性たちでも違いない。『Hanako』の誌面の網羅性は、そうした嗜好を見事にくみ取っていた。

やっていることは『angle』に近かった。でも同じような誌面構成を試みながらも『Hanako』は『angle』にあった冴えない雰囲気を払底し、オシャレで楽しいものへと転換させた。そこには総監編集長である椎根の手腕が発揮されていたのだと、田沢はいうのだ。

やがて人気のラーメン店に行列するカップルも当たり前の光景になった。新たなスタイルの情報誌『東京ウォーカー』(1990年創刊)やテレビ東京系のテレビ番組『出没!アド街ック天国』(1995年4月放送開始)によってB級グルメは一つの食を楽しむ方法論として確立されていく。「仕方ないから、ここで食べるか」でしかなかった定食屋や立ち食い蕎麦屋が、わざわざ電車を乗り継いで食べにいくものへと転換したのである。

そして、インターネットの普及。(コロナ禍はともかく)B級グルメの話題や情報には事欠かない。SNSを見れば、誰かしらが今日出かけた味のある店の写真をアップしているし、テレビでもYoutubeでも、面白そうな店の情報には事欠かない。

恐怖感があるからこそB級グルメは楽しいのだ

でも決してロートルになる気はないのだけれども「B級グルメ宣言」の頃にあったような楽しみは消滅してしまったような気がする。
 田沢が『angle』の仕事をしていた頃、誌面で取り上げたくなるなにか光るものを持つ店を探すにはとにかく動かなくてはならなかった。

「当時は、編集部にいけばライターがたむろしているから、そこで情報を交換して。バイトの学生に仲間を集めて貰ったりして、美味しい店の情報を聞いたり。時には<牛丼のことならなんでも知ってる>なんて人を紹介されることも……」

でも、まずは街を歩かなければ情報を得ることはできなかった。降りたことのない駅を降りたり、あまり歩いたことのない道を歩いて、目に飛び込んできた、これはという店に入るのだ。

お店の名前は楽しいがちょっと入るのに躊躇……美味かった

そういう時は、いつも「おそるおそる」という言葉が似合った。

どんな店でも店独自のルールがあるかも知れない。とりわけ居酒屋なんて、一見だとわかれば追い返されるような店かも知れない。今ならネットで検索すれば「この店は、こういうシステムです」なんて情報はレビューサイトで手軽に見つけることができる。でも、当時は違う。情報はゼロの状態で自分の直感だけを信じて入るのだ。

だから、当たりの店なら感激もひとしお。ハズレの店なら「なんで、こんな店にはいってしまったんだろう」と一日中悔しい。どちらでもない店で、なんとなく席に座って注文ができても、最後にお金を払って店を出るまで緊張は解けない。

立ち食い蕎麦屋好きには知られる、この店は店内の狭さから戦場感がある

たかがメシを食べるために緊張しなくてはいけない。それを楽しみへと転換して、誌面に反映させる一連の過程にはワクワク感があった。別段取材ではなくても「とんでもない店に入ってしまった」話題は、サークルの部室なんかで、たむろしている大学生の定番の話題だった。

でも、そんな失敗を笑う文化はとうに消えてしまったようにも思えるのだ。ひとたび店に入れば、客である自分が満足しなければダメな店ともいわんばかりに。

決して「自分は詳しい」と胸を張ることはできないが、定食屋や街場のラーメン屋好むボクも、様々な体験はしている。

20世紀の終わり頃までは、食べている途中でよく煮込まれた昆虫に遭遇する機会は多かった。常に店主が酔っ払っている店もあった。料理が美味いのに常に米が不味い店。店主がヨイヨイで「麺超カタメ」といわないと、伸びきったラーメンが出てくる店……。

そんな店に遭遇するたびに、悲しさと共に「ああ、たかが安い食事代でこんなに楽しませてくれるんだ」という感謝の念を抱くのだ。
 腹ペコなんだけど、胃袋よりもネタを求める心を満たしたい。なにか食べたくなった時、ついついそんなことを考えてしまう。
 
いま、田沢の記した「B級グルメ精神」を味わうには、海を越えてよその国にいってみるといいかもしれない。言葉の通じない国でガイドブックを見ずに店を選んで入るのは、ちょっとした冒険だ。

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。