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ひと言でいえば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である(国分功一郎『暇と退屈の論理学』)
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2019.08.21

75頭の鹿の首を捧げる「御頭祭」って? 縄文時代は終わったあともスゴかった!【長野】

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諏訪で縄文文化を守っていたのは誰だ?

最後まで残った中部・関東地域で「縄文銀座」を守っていたのがどこの誰であったか、あるいはこの地に外来文化を持ち込んだのがどこの誰であったかは、もはや誰にもわかりません。しかし、諏訪に伝わる神話の中には、そのキーを握ると思われる神の話があります。その神こそ、守矢家の祖先神「洩矢神(モリヤガミ)」です。室町期に編まれた諏訪大社の縁起を記した書物、「諏訪大明神縁起絵詞」には、洩矢神についてこんな記述がされています。

洩矢の悪神神居を妨げんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争い、明神は藤の枝をとりてこれを伏し給う。ついに邪輪を降し正法を興す(「諏訪大明神縁起絵詞」1356年より)

「明神」とは、現在諏訪大社の祭神「諏訪大明神」として知られる大変ありがたい神様、「タケミナカタノミコト」のことです。この神様、元々は出雲(現在の島根県)の神だったようで、その名は我が国最古の書物「古事記」にも登場します。天上の国を司る天津神(あまつかみ)が、出雲を統治する国津神(くにつかみ)のトップである大国主(オオクニヌシ)に国譲りを迫るシーンです。

国を譲るよう、天津神がオオクニヌシに迫ると、オオクニヌシが言うには「自分は構わないが、私の2人の子供がなんと言うか・・・」
そこで、くだんの2人に聞いてみたところ、1人目の御子、ヤヘコトシロヌシは快諾するが、2人目のタケミナカタは猛反対。無謀にも天津神を相手に戦いを挑む。(かくかくしかじかあった後)結局力敵わず、天津神に負けてしまったタケミナカタは東へ東へと逃亡し、ついには「洲羽(すわ)の海」まで追い詰められてしまう。そして、今後「諏訪から決して出ない」ことを条件に命拾いをする。

・・・というお話です。(だいぶ端折りましたが)「諏訪大明神縁起絵詞」に出てくるタケミナカタのお話は、他でもない、この古事記のエピソードの後日談というわけです。「洲羽の海」でタケミナカタを待ち受けていた洩矢神は、「鉄輪」を持って戦いますが、タケミナカタの「藤の枝」の前に負けてしまいます。それからのち、タケミナカタは諏訪大社の祭神「諏訪大明神」として君臨した、とあります。

諏訪にはこの神話を裏付けるように、天竜川を挟んで諏訪側に「洩矢神社」が、そして西側に「諏訪明神入諏の地」として伝わる「藤島神社」があります。ちなみに、「鉄輪」と「藤の枝」だったらどう考えても鉄のほうが強そうですが、この「戦い」は武力争いではなく、呪術比べだったと言われています。

以上が、嘘か真か、伝説あるいは神話の中のお話。しかし「神話なんて、古代人の考えた絵空事」と一掃してしまうのは、あまりにも早計です。諏訪は縄文時代、人とモノが集結する大都会だったのであり、弥生時代に入っても洩矢神に象徴される「洩矢族」をトップに、巨大な「縄文文化圏」を守っていたのだとしても不思議ではありません。タケミナカタに象徴される何者かがこの地になんらかの「異文化」を持ち込み、新しい文化形態が生まれたと考えるのはそれほど荒唐無稽な話ではないかもしれません。


長野県の遺跡を示した図。(尖石縄文考古館)明らかに目立つ赤い点々が縄文時代の遺跡。諏訪湖を中心に「大都会」が築かれていたことがわかります。

さて、タケミナカタに負けてしまった土着の神「洩矢神」ですが、実はそこで滅ぼされてしまったわけではありません。なんと諏訪では、相反する2柱の神が潰し合うことなく共存することで、独特の文化の形を築いてきたというのです。

書いた人

横浜生まれ。お金を貯めては旅に出るか、半年くらい引きこもって小説を書いたり映画を撮ったりする人生。モノを持たず未来を持たない江戸町民の身軽さに激しく憧れる。趣味は苦行と瞑想と一人ダンスパーティ。尊敬する人は縄文人。縄文時代と江戸時代の長い平和(a.k.a.ヒマ)が生み出した無用の産物が、日本文化の真骨頂なのだと固く信じている。