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2021.02.19

聖と俗とが入り交じる。かつて遊郭もあったディープな天草を覗いてみた

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その朝は「全便欠航」の文字に愕然とするところから始まった。

コロナの流行も一段落していた昨年の秋、熊本県に取材に出かけることになった。もう何年も携わっているマイクロマガジン社の「地域批評シリーズ」で熊本県を依頼されたのである
熊本県内のいくつかの地域をめぐる中で、天草は外せない土地だった。多くの島からなる天草諸島には二つの市とひとつの町がある。そのうち天草下島の大部分を占める天草市は8万人超の人口を抱える熊本県内で第三位の市である。そんな人口を抱える地域を外しては熊本県は語れないと思ったのだ。

天草への出発は長崎から

しかし、天草についての知識は乏しい。最近は世界遺産になったことは知っている。あとの知識といえば、島原の乱くらいのものである。知識が乏しいのだから、まずは訪れてみなければならない。
まずは行き方を調べてみる。

この先は大陸まで海が続くだけ。天草は世界に開いた玄関口なのだ

東京からは驚くほどに遠い。それどころか、同じ県内なのに熊本市からはバスで2時間半もかかる。そんな島だから熊本県のメインの空港である阿蘇熊本空港とは別に、天草飛行場があって大阪の伊丹空港や福岡空港からは定期便も飛んでいる。調べて見ると、高い。それに、飛行機で一直線というのはどうしても好きになれない。やむを得ず飛行機に乗ることもあるが、別の手段があるなら、そちらを使いたい。

本土とは橋で繋がっている天草だが、今でも航路がある。島原半島南端の口之津と、長崎市の茂木から、それぞれ船が出ている。後者で向かうことにした。調べてみると、この航路はかつてはフェリーが運航されていたが、乗客の減少で廃止。それでも長崎市とを直結する生活に欠かせない航路のため高速船として復活した経緯があるというのだ。そこに歴史を感じたのだ。今では熊本県の一部になっている天草だが、長らくもっとも近い都市は長崎だった。島原の乱の後に、紆余曲折を経て天領になった天草は、長崎奉行の管轄で各藩が委任される形で統治されていたという経緯がある(天領ということで幕府の直轄地なのだが、実際の支配は島原藩・長崎代官・日田郡代など変遷している)。

廃藩置県後も、一時は長崎県に編入されていたが、もともと肥後国天草郡という理由で熊本県となった。そういう経緯もあって、天草五橋ができる以前、海上交通が地域の幹線だった時代には、長崎から天草下島の西を通って南端の牛深へ向かう航路は栄えていた。この航路は1954年に廃止されたが、その後1991年には天草下島の高浜港と長崎港を繋ぐ航路が開設されている。しかし、既に天草は熊本市との関係性のほうが強くなっていたためか、客足は伸び悩みわずか数年で廃止されている。だから、今では茂木〜冨岡航路はかつての長崎との関係を語る歴史を感じる航路と思ったのだ。それに、ちょうどGOTOキャンペーンが始まったばかりの長崎に観光客がいるのかは見ておきたかった。

天草の歴史、初めて知った!でも昼間さんの記事だから、もっと深い歴史がこれから繰り広げられるんだろうな。

港までいったら船が出なかった

不安な兆しがプンプン......!

朝一番の船で天草に向かおうと前日のうちに長崎に着いた。向かう途中で港までの行き方を調べていて嫌な予感がした。既に秋も深まり九州に台風が上陸する時期ではなかったが、南方には台風があった。その影響なのか運行状況の案内には減便、そして全便欠航が相次いでいた。でも、数日間の欠航が続きそろそろ台風も遠ざかっていた。運行状況は、いつも朝の6時半頃に更新されていた。朝目が覚めてから考えればいいと思い、早々と床についた。

翌朝、起きてすぐに運行状況を見てみると、なにも更新はされていなかった。ということは大丈夫だろうと、駅前のバス停から茂木港へ向かった。茂木港は長崎の市街地から山を越えた有明海側にある。バスはすぐに市街地を離れて山の急坂を登っていく。どこまでいっても急坂のそばには、へばりつくように住宅地が広がっている。観光客など来ない長崎の普段の生活を車窓の向こうに眺めながら、今日の予定を考える。道が下り坂になると、急に建物は少なくなり、やがて漁村の風景に変わった。
茂木港の高速船乗り場は、埠頭に古ぼけた建物が建っているだけだった。バスも頻繁にくるわけではない。ほんとうにギリギリのところで航路が維持されているのだと、考えながら建物に入った。
切符の売り場には「高速船本日全便欠航」の札が置かれていた。ちょっと驚いて、スマホで運行状況を見てみると、その日に限ってなぜか7時過ぎに全便欠航の案内が更新されていた。
 さて、どうしたものかと思案していると、窓口から出てきた女性がNHK語で話しかけてきた。

「今日は欠航なんですよ。口之津からは出ていると思うので、聞いてあげましょう」

中に戻った女性は慣れた手つきで電話をして、こちらに聞こえるように「今日は運行していますか、大丈夫ですね」と尋ねてくれた。戻ってきた女性が改めて口之津からは出ていることを教えてくれたので、お礼をいってバス停に戻った。スマホで時刻表を見る。

全便欠航だというのに困っているのはボクだけ。それがローカル航路であることを知らせる

次に来るバスに乗って長崎駅前まで戻る。そこから特急で諫早駅へ。駅前のバスターミナルからバスに乗って1時間半ほどで口之津港へと至る。これは大変だと思った。長崎駅前でバスを降りて、特急が出発するまでの乗り換え時間は5分程度だった。

新駅舎とバス停・路面電車停留所を繋ぐ道が酷すぎる長崎駅前。毎日利用している人は辛そう

新宿駅でもないのだから、駅前で降りたらすぐだろう……少し前までの長崎駅ならそうだった。しかし、2020年4月、新幹線の開業を前に長崎駅は新築移転をした。これまでの、平面に多くの線路が並ぶ終着駅然とした風景はすべて廃止され、今風のゴテゴテした意識の高い高架駅に変わっていた。それならいいのだが、駅周辺の整備はこれからとかで、新駅に向かう道というのは旧駅のホームの端同士を無理矢理繋いだものなのだ。さらにそこからも離れているから、いったい何百メートルあるのか。ちょうどラッシュの時間である。満員のバスで大きなバックパックを抱えている迷惑な旅行者となりながら、バスが一刻も早く到着することを願った。

発車5分前にバスは長崎駅前に着いた。重いバックパックを背負って全力で走る。走り抜けて切符を買い、改札を抜けて階段を駆け上る。なんとか列車に飛び乗った数秒後に発車のベルが鳴った。

ギリギリセーフ!!

 
諫早駅までは早かった。しかし、ここでもバスの乗り換え時間は5分。
諫早駅前のバスターミナルは、これまた昭和のままの建物だった。すぐにバスが来たので探訪は諦めて乗車した。乗客はほとんどいない。海と田園、山だけを眺めながらバスは島原半島を南へと向かう。

こんな昭和感のあるバスターミナルは貴重。向かいの諫早駅の真新しさと比べると驚く

たどり着いた口之津のフェリーターミナルは、ちょっと移動して新築したばかりだそうで真新しかった。なにより、2階部分には資料館が併設されていた。出航まで見学しようと資料館に入った。展示は思った以上に充実していた。今では鉄道も廃止され、ひなびた雰囲気の口之津が、かつては石炭の積出港として栄えた時代もあったこと。

資料館を見学してゆっくり船を待つことが出来る口之津は楽しい

戦国時代の頃の海外との交流や、からゆきさん(主に東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のこと)についても語られていた。展示を見ると、途中から館長さんが案内をしてくれた。なんでも、以前は東京の大学で教えていたが定年になって故郷に戻り館長になったという。これから天草にいくことを告げて、今も島原と天草との交流は深いのかを聞いた。「お互いにあまり出かける用事はないですね」というので、さらに天草への期待感が湧いた。

決して離島ではなかった天草

フェリーはなんの支障もなく時間通りに出発した。聞けば、茂木〜冨岡航路の高速船はほとんど漁船のようなサイズなので、ちょっと波があると欠航せざるを得ないという。対して、こちらは車も運ぶフェリーなので、多少の波でも問題ないそうだ。

いきなり港の前が潰れた土産物屋だけとは。観光客はあまり来ないのか

到着した天草の鬼池港の周辺には、なにもない風景が広がっていた。ほかの乗客はマイカーだったのか、バス停には自分しかいなかった。風が吹くだけの寂しい風景を眺めながら、煙草に火をつけた。強い風にしめていたネクタイが煽られて顔に張り付いた。ネクタイの中程には大きな穴が開いていた。すぐに結び目をほどいて、ネクタイを丸めてごみ箱にたたき込んだ。

あのネクタイはどこで買ったのだったろう。そう、ベトナムに出かけた時に、怪しげな日本語を話すオバサンに売りつけられたやつだったか。そんなことをウジウジと考えていると、バスがやってきた。これに乗れば、天草市の中心地である本渡のバスセンターまで。それでも50分かかるのだが、ネクタイを失った悔しさに下を向いているうちにバスは市街地に入った。

想像以上に街が賑わってる天草。ただ、美味いラーメン屋がないのが問題と地元民・談

顔をあげて市街地の風景を見ていると、驚いた。道沿いは思った以上に賑やかだった。ユニクロの看板はあるし、いくつものロードサイドの店舗があった。本土から遠く離れた離島。世界遺産になるような鄙びた島のイメージからはほど遠かった。バスセンターに着いてあたりを見回すと、マクドナルドとTSUTAYAの看板があった。いきなり予想を覆された気になって、ちょっと気持ちが晴れた。

ちょっと見るだけはやりにくい天主堂

なぜか選べる朝食メニューにタコライスがある楽しいホテルに一泊して、牛深に向かうことにした。天草の人は異邦人に親切だった。世界遺産の教会のある大江と崎津を通って牛深にいきたいというと、時刻表を取り出してマーカーに線を引いてくれた。

天草唯一の映画館・本渡第一映劇の中を撮影させてもらった。翌日から『あつい壁』を上映だった

「それぞれ、次のバスまで2時間ほどありますから見学の時間も十分ですよ」

前日は、高速船が欠航だったので口之津まで移動してフェリーで来たという話をすると、自分のことかのように同情された。

熊本行きのバスが出るのでバスセンターはいつも賑わっている

GOTOキャンペーンの利用者は多いというが、バスを使う人は自分くらいしかいなかった。ほかに乗客のいない小さなバスは、下田温泉へ向かう。ここで乗り換えなので、別のバスが来るのかと思ったら、乗ってきたバスの表示が変わっただけだった。天草下島の南北を繋ぐ道路のうち幹線になっているのは、島の中程を通る道。だから西の海岸の集落を繋ぐ道は狭い。すれ違いも困難にみえる道をバスは走っていく。かつては、海上交通のほうが盛んだったのはよくわかる。この道ですら整備されるまでは、それぞれの集落の繋がりは極めて希薄だったのだろう。本土の歴史資料館にはかつての交通機関だった馬車の模型が置かれている。そこで館の人に戦国時代の天草五人衆について尋ねた時も、やはり交通の便が悪いために島全体を支配する有力者が出なかったと教えてくれた。「まあ、やくざの親分みたいなものですよ」と、戦国時代の国人の立ち位置を率直に語ってくれたのが印象に残った。

バスが通るにはなかなかハードコアな道が続いている

そろそろ、風景に飽きた頃にバスは大江に着いた。小さな大江の集落には潜伏キリシタンの資料を所蔵する天草ロザリオ館。その向こうの丘には真白い大江天主堂がある。なるほど世界遺産になる美しい風景であることに間違いはないと思ったが、決して賑わっているようには見えなかった。麓の小さな土産物屋の横の坂を登って大江天主堂に向かった。天主堂の前にはテントがあって、老女が一人でジュースや土産物を売っていた。

ジュースを買い求めて、いつもこんなに静かなのかと尋ねた。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」となっている天草。その中で、この地で歴史を育んできたキリスト教の信仰者たちが建てた教会は、この大江と崎津の二つがある。

決して観光施設ではない大江天主堂。晴れた日に訪れると心地よい

「以前は、観光バスも来ていたけど、最近は崎津のほうが賑わっているのです」
 
そう語る老女だが、別に観光客の少なさを嘆いているわけでもなかった。帽子を脱いで教会扉を開けた。中には年老いた修道女が一人。立ち上がって「いらっしぃませ」と会釈して、また祈りに戻った。特に美術や建築に造詣があるわけではないボクは、ちょっとだけ覗けばいいかと思っていた。でも、挨拶をされるとそれではまずい気がして、椅子に座った。宗旨は違うが、キリストの神様とやらも八百万の神様のひとつに違いはないと思った。いつものならいで、柏手をうってから、うろたえた。いよいよ、そそくさと出ていくわけにはいかないと思い30分ほど瞑想してみた。
 
下の博物館で教科書に載っているマリア観音なんかを見て感心しているうちに時間は過ぎた。博物館も、土産物屋も恐ろしいほどに商売っ気はなかった。キリスト教の本山であるバチカンなんて、それこそあたりの土産物屋は十字架やら聖像なんかを何種類も売っている。平戸の教会を訪れた時もやたらと土産物が充実していた記憶があるのだが、世界遺産になっているにも拘わらず、観光地然としない雰囲気が興味深かった。こうした土地に生まれた人はどんな人生を歩んでいくのかが、気になった。

じっくり雰囲気に浸れそうでいいな〜

ここには、昔遊郭があって

大江から、またバスに乗って20分ほど。崎津の集落は、もう少し観光地然としていた。ただ、世界遺産になったからというより、もともと崎津の港に長崎との船が立ち寄り、かつては映画館もあったほどの地域の繁華街だったことが理由といえる。だから、いくつかの店や展示施設のほかは静かな街並みが広がっている。このあたりの風習である、一年中玄関に注連縄(しめなわ)を飾る家々の間を歩けばやはり聖地の香りがある。先年亡くなったが、八代市に麦島勝という写真家がいた。工場勤めの傍らで小さなバイクで熊本県内各地を訪ねて、日常の風景を撮影し続けた人である。今も八代市立博物館で買える写真集に1951年に撮影された「殉教の里」という一葉がある。海から戻った漁師が、娘を連れて天主堂に詣でて今日の無事を祈っている日常を切り取ったものである。世界遺産だとか、聖地というと、なにか日常とかけ離れた尊大さがある。でも、この地での信仰というのは、日本のどこにでもある土地の神様に感謝するものと変わらないものなのだろう。

名物は早い時間に売り切れてしまうという……

ちょうど休日だったためか、港から天主堂の前を通って、諏訪神社の鳥居へと至る「神の道」といわれる通り沿いには、テントがあって土産物などを売っていた。

「もちを食べていかんか」

ちょっと聞き取りづらい土地の言葉でテントのところにいた老人が声をかけてきた。売っていたのは、串に刺した天草伝統のこっぱ餅だった。さっそく買い求めてみると、驚くほどに上手かった。

「もともと、この集落は栄えておったのですか?」

そう訪ねると、老人はテントの向かいにある、﨑津資料館を指さした。もとは古い建物だったのか、リニューアルしすぎて少し残念な建物である。

「ここには、昔遊郭があってな……」
 
心の中で「やったー」と小躍りした。
「へえ、それは賑やかだったでしょう」

のせるように相づちをうつと老人は楽しげに語り始めた。

ワクワクドキドキ♡

神の道はかつては繁華街の目抜き通りでもあったのだ

「そこの港に長崎から汽船が来ておった頃は、船が着いて人が降りてくると、二階からお姉さんたちが欄干をカンカン叩いて客を呼ぶんじゃ……波が荒くて漁に出られない時は、あちこちから漁師がやってきて、そりゃあ賑やかなものじゃった……ワシも中学生の頃じゃったか、友達とドキドキしながらお姉さんたちの様子を見に来たものじゃ……福岡あたりから働きに来た人が多かったと思う」
 
ほかにも世界遺産に登録してもらうための集落の苦労話も聞いたが、もっとも印象に残ったのはこの話だった。いまや「神の道」として神聖さを語っている道の、どこにも記録されていない歴史を知ることができたからだ。神の道は聖なる道というよりも、聖と俗とが入り交じる、より味わい深い道だと思ったのだ。

この言葉が味わい深い。

かつて栄えた港の面影を求めて

崎津を去って、再びバスに乗り牛深に向かった。平成の大合併までは単独で牛深市だった地域の中心市外には人の姿もなかった。なにしろ、宿を探したところ今どき、楽天トラベルにもじゃらんにも登録がなく、Google検索で見つかる宿がある程度の街である。電話して予約が取れた、その宿は一階のロビーも消灯したままで、ひたすらに味わい深かった。
 でも牛深は単なる田舎町ではない。人の姿の少ない市街地は広い。シャッターの目立つ通りは時が止まったかのように、かつての繁栄の歴史を語っている。かつて航路が栄えていた時代には、牛深は天草下島と鹿児島方面を結ぶ南のターミナルであった。旅客船が行き来し、漁師が魚を水揚げする経済の中心地として繁栄をしていた。今では人口約1万6000人程度の牛深だが、1955年には約3万8000人を数えていたという。

かつての賑わいは過去のものになった牛深だが、歴史の味わいは今もある

牛深には「牛深に三度行き三度はだか」という言葉がある。牛深の女性があまりにすばらしく、持ち金が尽きるまで居着いてしまう有様を指した言葉である。そんな繁栄の背景には、長らく商売女だけでなく素人の娘までが春をひさぐ文化が昭和の頃まであったという。宿には女中がおらず、普通の娘が給仕をしていて、客と話がまとまると自分の家に招くのだ。そうすると両親が出てきて、婿が来たかのように家族で世話を焼いてくれる。そうすると、一晩のはずが三日四日と延びていき10日とか一ヶ月になり、持ち金が尽きるまでいついてしまう。だから、帰る時は裸になる。女のほうも、明治の頃は客がつくと眉を剃ってお歯黒をつける風習があったというから、まさに現地妻である。こうして男が帰る段になると家族総出で港まで見送ってくれるから、はだかになっても、またやってくる。事情を知る者は。米俵を一俵買い込んで、それがなくなるまでいたという。
この風習は太平洋戦争の頃に取り締まられるようになって消えたというが、それでも他所の土地から牛深にやってくる役人には、天草の、牛深の女の虜になってそのまま居着く者も絶えなかったという。
そんなかっての繁栄の風景を求めて街を歩いた。いくら歩いても、街には女の姿どころか人の姿もほとんどなかった。仕方なく、数少ない開いている店を見つけて、名物だというちゃんぽんを食べた。美味いけれども、味は素朴で薄かった。東京に暮らす天草出身の友人が「あんなものは、地元民は食べない」といった意味がわかった。

<参考文献>
濱名志松『天草の海上交通史』 濱名志松 1997年
大宅壮一「天草の女たち 今も生きている“からゆきさん”の故郷」『文藝春秋』1956年10月号
昼間たかし・鈴木士郎『これでいいのか熊本県』マイクロマガジン社 2021年

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。

この記事に合いの手する人

‪‪銀行に10年務めたあと和樂webのスタッフに。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』聞き手担当。頭も体も硬いので、今一番欲しいのは柔軟性。