戦国マニア必見!徳川家康を育てた「臨済寺」に行くしかない!

戦国マニア必見!徳川家康を育てた「臨済寺」に行くしかない!

徳川家康は苦難の少年時代を送った人物である。

家康の出身地は織田と今川という大勢力に挟まれ、どちらかの陣営につかなければ生きていけないような弱小豪族だった。彼は織田と今川、両方に人質として取られている。しかし戦国時代の「人質」とは、決してぞんざいに扱われたわけではない。

むしろ、今川への人質として駿府(今の静岡県静岡市)にいた頃の家康は厚遇されていた。彼は今川にとっては、未来の家老である。軍団を率いて戦えるだけの武将になってくれなければ困るのだ。

だから今川は、当時竹千代という名だった幼少時代の家康を「軍事学院」に入れた。

それが臨済寺である。

年2回の一般公開

静岡県静岡市葵区に所在する臨済寺は、修行寺である。

普段は一般公開されておらず、境内に入ることはできても建物内に上がることはできない。だが年に2回だけ、この臨済寺の本堂が公開される。今川義元の命日である5月19日と、摩利支天祈祷会が催される10月15日が一般公開日だ。

今回は10月15日の公開日に臨済寺へ足を運んだ。

「猪に乗った神様」で有名な摩利支天は、武士たちからの信仰を集めていた。徳川家康も摩利支天を信仰していたひとりである。上の写真の摩利支天像は、もともとは浅間神社にあったもの。明治の神仏分離政策を受けて臨済寺に移されたのだ。日本において仏教と神道は、明治時代を迎えるまでは融合していた。

臨済寺は様々な歴史的所蔵品を抱える寺社でもある。この日公開されていたものの中には、あの武田信玄の書状もあった。戦国時代の臨済寺は「今川の外交機関」としての一面を有していたのだ。

寺と軍事学

また、臨済寺は先述の通り「軍事学院」でもあった。

徳川家康にとっての学問の師匠は、臨済寺の僧侶太原雪斎。この雪斎は今川の軍師でもあり、実際に兵を率いて戦ったこともある。聖職者が軍人を兼ねるということは、決して珍しい光景ではなかった。同時に、寺社は最先端の軍事学を教えるための教育機関としても機能した。家康は人質であったが故に、この時代最高レベルの「士官養成プログラム」にありつくことができたのだ。

そもそも、徳川家康という人物は決して天才肌ではない。彼は自分が独自に考えた方法で事を進めた男ではなく、むしろそのやり方は幾人もの先駆者の手法を改良及び融合したものだ。家康は「勉強で知識を得る人」だった。

家康の読書好きは、現代でもよく知られている。それはつまるところ、臨済寺での少年時代が原点にあるのではないかと筆者は考えている。

修行寺の中であれば、本は読み放題である。今とは違い、図書館などは存在しない。本を読もうと思ったら、寺に行くぐらいしかなかった時代だ。

徳川に愛され続けた駿府

臨済寺の所蔵品の中で「これは!」と思ったものがある。

それは山岡鉄舟の書だ。「東照宮守護大摩利支尊天」とある。山岡鉄舟については筆者も以前記事にしたが、彼の豪胆さがよく表れている筆遣いだ。山岡もまた、摩利支天を信仰する者のひとりだったのだろう。

臨済寺は、というよりも駿府の寺社は、徳川に愛され続けた。

臨済寺も浅間神社も戦乱で焼けているが、徳川はそれを再建している。さらに晩年の家康は、江戸ではなく駿府に腰を下ろした。ここが戦略上の重要拠点ということもあるが、家康は「己を成長させた出来事」をいつまでも忘れない男である。駿府がなければ今の自分がないことを、骨の髄まで自覚していたのだ。

そんな家康の意向は、徳川幕府の歴代将軍に引き継がれた。臨済寺は明治維新を迎えるまで幕府に厚遇され続ける。

駿府がアツい!

静岡市は今、歴史マニアに注目されている。

そのきっかけは駿府城だ。史料にはない「幻の城」の天守台と金箔瓦が発掘され、しかもそれが豊臣秀吉の命令で築かれたものではないかという説が浮上した。駿府城公園の発掘現場には、全国から戦国ファンが押し寄せるようになった。

今川、武田、そして徳川と、駿府は太守を変えながらも戦乱の世を生き抜いた。その中で駿府は東海地方を代表する都市としての形を徐々に築き上げ、今の静岡市の基礎になったのだ。

【臨済寺】
静岡県静岡市葵区大岩町7−1(本堂は通常非公開)

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