Culture
2020.04.25

ラストサムライといえばトム・クルーズ?いえいえブリュネさんこそが真の侍です!

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『ラスト・サムライ』といえば、トム・クルーズ主演の大ヒットハリウッド映画です。江戸時代の長い鎖国を経て、明治維新で近代化を目論んだ政府とそれに反対した不平士族たちの抗争を描いた映画で、トム・クルーズ演じるアメリカ人のネイサン・オールグレンが不平士族たちと心を通わせ一緒に戦うといった一見ありえないだろうと思われるストーリーです。

日本人としては、突っ込みたくなるシーンも多々あり、よくあるアメリカ人が好きな日本人像を描いたフィクション映画だろうと思う方がほとんどではないでしょうか。細かい指摘はおいといて、外国人ながら不平士族とともに新政府軍と戦った人物は実在したそうです!

ジュール・ブリュネ/wikipediaより

■和樂web編集長セバスチャン高木が解説した音声はこちら

フランスから来ました!ジュール・ブリュネ

ハリウッド映画ということで、『ラスト・サムライ』のネイサン・オールグレンはアメリカ人でしたが、リアル・オーグレンはフランス人のジュール・ブリュネです。ブリュネは、メキシコ戦争でも大活躍し、24歳にして最高位のレジオンドヌール勲章を与えられています。そんな超エリート軍人がどうしてはるばる日本にやって来たのか。

幕府は諸外国のうち特にフランスと親しくしていたため、軍制や法制もフランスをお手本としていました。1866年に第二次長州征伐に失敗したことをうけ、政府はフランスに巨額の借款を申し込み、軍制の近代化に向けて総勢19人もの軍事顧問団を招待しました。その時来日した顧問団の一人がジュール・ブリュネです。

当初派遣された軍事顧問団の15人、のちに4人が追加派遣された。ブリュネは前列右から2人目/wikipediaより

ブリュネたちは、隊長を務める大鳥圭介らとともに西洋式軍隊の伝習隊を約1年ほど鍛え上げました。3000人ほどいた伝習隊の隊員の多くは、博徒や火消、馬丁など、武士以外の腕っぷしの強い者たちでした。というのも、鉄砲を扱える近代的な軍隊にしたかったので、鉄砲は足軽のものと考える旗本らには不向きだったのです。

そんな伝習隊を、ブリュネは厳しい訓練で最強部隊と称されるまでに見事に鍛え、伝習隊員との間に信頼関係を築いていきました。

大鳥圭介/wikipediaより

すべては教え子たちのために。国をも捨てたブリュネの覚悟

そんな中、ついに幕府軍と新政府軍が衝突する戊辰戦争が勃発したのです。ブリュネは伝習隊の主力を率いて参戦しようとするも間に合わず、幕府軍は鳥羽伏見の戦いで敗北することとなりました。大鳥圭介や幕府の軍艦頭の榎本武揚とともに、ブリュネは徹底抗戦を主張しますが、賊軍とされた徳川慶喜はそれ以上新政府軍に抗うことなく、自ら謹慎します。このため、幕府の軍事顧問団として雇われていたブリュネらには本国から帰国命令が出されます。

ところが、ブリュネは同じく軍事顧問団であったアンドレ・カズヌーヴら4人とともに、イタリア公使館で開催されたお別れ会を兼ねた仮装舞踏会を抜け出し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊とともに神速丸で激戦地の東北へと向かいました。教え子らのために祖国・フランスでの地位を捨て、賊軍に身を投じたのです。

2ヶ月後、祖国・フランスに迷惑がかからないように、ブリュネは上官・シャノワンヌに当時のフランス皇帝・ナポレオン三世に向けて辞表を提出しています。シャノワンヌは、実はブリュネの脱出に気づくも、気持ちを汲んで止めなかったんだとか。さすがは、ブリュネの上官なだけあって粋な方ですね!

戊辰戦争下のブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど。ブリュネは前列左から2番目、カズヌーヴは後列左端/wikipediaより

箱館に到着したブリュネは、蝦夷共和国総裁となった榎本武揚の指揮のもと、陸軍奉行に任命された大鳥圭介の補佐として箱館北方の防衛を任され、各地で戦闘指揮に加わりました。しかし、決死の奮闘も虚しく、数で勝る新政府軍には力及ばず、蝦夷共和国軍(旧幕府軍)は敗れ去ってしまいます。

敗戦を受けて、榎本武揚はブリュネたち外国人に脱出を指示します。こんなシーン、『ラスト・サムライ』にもありましたよね!ブリュネたちは無事五稜郭から抜け出し、フランスに帰国しました。帰国後、厳しい取り調べを受けたブリュネたちですが、弟子たちへの思いが詰まった辞表の文章が公開され、国民から英雄視されたことで戒告処分ですみました。

消えぬ日本への思い

さて、弟子たちのために母国も地位も投げ捨てて戦ったブリュネ、帰国後はどのように過ごしたのでしょう?実は、ブリュネと日本の絆はここでは終わりませんでした。戒告処分を受けたものの、ブリュネは軍人として復帰し、参謀総長まで出世しました。

日清戦争では、日本軍の上陸を支援し、1895年には日本政府から「勲二等旭日重光章」を授与されています。勲二等旭日重光章は、当時の政府が外国人に授与する勲章の中で最高位のものでした。そして、この贈呈を明治政府に働きかけたのが、閣僚にまで出世していた榎本武揚だったのです。幕府のために命を賭して戦った2人の友情は、ブリュネの帰国後も続いていたのです。

ブリュネは、1911年8月12日にパリ近郊でその生涯に幕を閉じますが、晩年までシャノワンヌとともに、日本から渡仏した陸軍の面倒を見ていたそうです。

榎本武揚/wikipediaより

晩年まで日本のために奮闘し続けたブリュネ。今の日本とフランスの関係も彼の功績がなければありえなかった、のかもしれません。

和樂web編集長セバスチャン高木が音声で解説した番組はこちら!

書いた人

生粋の神戸っ子。デンマークの「ヒュッゲ」に惚れ込み、オーフス大学で修士号取得。海外生活を通して、英語・デンマーク語を操るトリリンガルになるも、回り回って日本の魅力を再発見。多数の媒体で訪日観光ガイドとして奮闘する中、個人でも「Nippondering」を開設。若者ながら若者の「洋」への憧れ「和」離れを勝手に危惧。最近は、歳時記に沿った生活を密かに楽しむ。   Born and raised in Kobe. Fell in love with Danish “hygge (coziness)” and took a master’s degree at Aarhus University. Enjoyed the time abroad, juggling with Danish and English. But ended up rediscovering the fascination of Japan. While struggling as a tour guide for several agencies, personally opened “Nippondering” that offers personalized tours with a concept of “When in Rome, do as the Romans do”.