穏やかな笑みを湛えて眠る布袋尊。その上には「夢香梅里多」の文字。
この長閑な図柄が描かれているのは、少し意外な場所だ。
脇差の刀身。それが布袋尊のおわす場所である。
薄い刀身の、半分ほどの深さまで掘り下げられていようか、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身とも見なされる七福神の1人は、岩壁に彫られる磨崖仏(まがいぶつ)のごとくに刀身深くまどろんでいる。
重要美術品「布袋国広(ほていくにひろ)」。刀の持ち手部分にあたる茎(なかご)に足利学校(現・栃木県足利市)で作られたことが示される、名刀工・信濃守国広(しなののかみくにひろ)の傑作である。
なぜ、脇差に布袋尊が彫られたのか、「夢香梅里多」とは何か、そもそもなぜこの布袋国広は生まれたのか。
ゆかりの地であり、現在の所蔵先である栃木県足利市に、その謎を追った。
「最も大にして最も有名」なる坂東の学府、足利学校
足利市は、都内から特急で約70分の場所に位置する、文化の香り高い町である。その歴史は想像以上に古く、映画のロケ地としても有名な足利公園は、古墳群そのものである。
JR足利駅から程近い地に佇む足利学校は「日本最古の学校」「日本最古の総合大学」といわれる。
創建は奈良時代とも、平安時代初期、あるいは鎌倉時代初期、室町時代中期ともいわれて定かではないが、室町時代中期に関東管領の上杉憲実(うえすぎ のりざね)が整備・儒学書の寄進を行い、鎌倉から禅僧快元(かいげん)を庠主(しょうしゅ。校長)として招いて以降は、その華やかな活動の記録が残されている。
ここを訪れた著名人は儒学者の林羅山(はやし らざん)、日本画家の谷文晁(たに ぶんちょう)・渡辺崋山(わたなべ かざん)、洋画家の黒田清輝(くろだ せいき)、幕末の志士では吉田松陰(よしだ しょういん)や高杉晋作(たかすぎ しんさく)、実業家の渋沢栄一(しぶさわ えいいち)、教育者の新渡戸稲造(にとべ いなぞう)、陸軍大将の乃木希典(のぎ まれすけ)など枚挙に暇がない。
また、徳川家康から厚い信頼を寄せられていた天海(てんかい)僧正は足利学校で4年間学んでおり、加えて家康は京都の圓光寺(えんこうじ)に足利学校の庠主を招いて分校を開いている。
戦国時代に日本を訪れた外国人宣教師もこの足利学校について書き残しており、京都や京都近辺の学府を挙げた上で、「最も大にして最も有名」なのは足利学校だ、と記している。
足利では「学校」「学校さま」といえばこの足利学校のことを指す。往時の規模はもう見られないものの、昔も今も市民に愛される場所である。
日向の山伏刀工国広、足利に逗留する
新刀(主に江戸時代の刀剣)の祖の1人とされる名刀工・国広も、この地を訪れた1人である。しかし、もともと九州・日向国(ひゅうがのくに。現・宮崎県)で活躍していた国広が、なぜ遠路はるばるここまでやってきたのかは不明だ。
ただ、足利学校の庠主に九州出身の僧侶が多かったといい、特にこの頃には3代続いていた。これが何らかの要因であった可能性はある。また、足利領主・長尾顕長(ながお あきなが)との関連を指摘する説、石田三成の命によるものとする説もある。一説に、国広は京都で人を殺めたために足利へ逃れてきたとも言われるが、確かな証拠のあるものではなく、真実は不明のままである。
国広は姓を田中といい、日向都於郡(とのこおり)伊東氏の家臣だったが、主家が没落した後は山伏となって諸国を放浪したとされる。祖父も父も刀を打っていたらしく、国広は鍛刀の技術を父・国昌(くにまさ)から学んだという。
非常に高い技術を持ち、後に京都・堀川に腰を据えた際には、当代一流の刀工らを多数統率してその名を轟かせた。
布袋国広、生まる
その国広の手により、天正18(1590)年、足利の地で生まれたのが名刀「布袋国広」である。足利郷土刀研究会会長の田部井勇(たべい いさむ)氏によると、恐らく、足利学校の三要(さんよう)和尚のために打ったものであろうという。
刃長1尺0寸3分(31.2センチメートル)、反り2分5厘(0.76センチメートル)、元幅1寸強(約3センチ)、手元に最も近い部分の厚さは2分弱(6ミリ弱)。短刀と脇差の中間ほどの長さ(現行法律の分類上は脇差)で、美しく精緻な肌に穏やかで優しい姿、作られた当時の姿を非常によく残している優品である。
刀剣に刃こぼれなどが生じた場合、それを取るには研磨によって研ぎ減らすしかないのだが、刀身に彫られた布袋尊や文字に、研磨による摩耗はほとんど見られない(もちろん刃こぼれもない)。また、薄い刀身に非常に深く施された布袋尊の彫刻は、使用すればそこから折損する危険性が高い上に、手入れが難しくなる。武器として作られたものではないのだろうということは、そこからも推察される。
この布袋国広が作られた天正18(1590)年は、七福神信仰の広がりとともに盛んに刀身に七福神が彫られた時代だという。国広の別の作には大黒天や毘沙門天、同時代の村正の作などにも大黒天の刀身彫が見られるといい、これもそうした1つだったのかもしれない。
なお、足利の研究者らによると、布袋国広の茎に「足利学校」と銘切られてはいるが、学校内(入徳門内)で打たれたと見るのは難しく、学校の領内ないし門前町にあった鍛冶場のうちの1つで作刀していたものだろうという。
足利で作られたと見られる国広の刀
足利郷土刀研究会の田部井氏によると、国広が足利の地で打ったと見られる現存作は、布袋国広を含め5点ほどではないかという。長尾顕長のために備前長船の名工・長義(ながよし/ちょうぎ)の刀を写した「山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)」も、この中に含まれている。
・脇差 銘 日州住藤原国広 天正十七年八月日 彫:台上毘沙門天
・脇差 銘 九州日向住信濃守国広作
・刀 銘 九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長 (号 山姥切国広)
・脇差 銘 日州住信濃守国広作 天正十八年八月日 於野州足利学校打之 彫:表杖、裏 夢香梅里多 睡布袋 (号 布袋国広)
・脇差 銘 天正十九年二月吉日 日州住信濃守国広作 彫:大黒天
布袋国広、歴代の持ち主
布袋国広は古くより高い評価を受けてきたと目されている。歴代の所有者もそうそうたる顔ぶれだ(記録に残らない時期を含め、以下はすべてを網羅はしていない)。
・足利学校の三要和尚(天正18年、最初の持ち主)
・幕府の儒学者 林大学頭述斎(天保10年ごろ)
・徳川達孝伯爵(大正14年ごろ)
・刀剣研磨・鑑定家 本阿弥光遜氏(昭和10年ごろ)
・昭和12年、重要美術品指定 三井高修氏
・現在、公益財団法人足利市民文化財団・所蔵
※足利郷土刀研究会資料より
夢香る謎多し、布袋国広
ところで、布袋国広にはいくつかの謎がある。そもそもなぜ国広が足利に来て、なぜこの脇差に「足利学校」の名前を切ったのか、といったことの他にも解明されていないものが多いのだ。
布袋尊の正体は……
布袋尊の右腕を見てごらん。そう言われて刀身彫刻に目を凝らす。
袋の上に組んで頭を載せている右腕に……なにか、ある。
少し肘寄り、縦長に伸びるもの。これは「いぼ」と見られているそうだ。一説に、国広本人の右腕にもいぼがあったために、これを写したものだという。日本画の世界でも、絵師が作品中に紛れ込んで描かれていたりするが、そういった感覚だったのだろうか。
国広ではなく、三要和尚の肖像である、という見方もある。これもまた布袋国広の謎の1つである。
うるわしき「夢香梅里多」
布袋尊とともに刀身に彫られた「夢香梅里多」の解釈についても、今もって定説がない。
・禅語の一節である
・「梅里多(ないし梅多里)」が、布袋尊と結びつきの深い弥勒菩薩を表す
・睡菩薩(ねむりぼさつ)の心境を示す
どう読むのか、といったことにもいくつかの説があり(漢文の読み下しだから当然かもしれないが)、「ゆめにかおるばいりおおし(夢に香る梅里多し)」「うめかおるさとゆめおおし(梅香る里夢多し)」「ゆめはかぐわしばいりおおし(夢は香し梅里多し)」など、いまだ決着を見ていない。
三要和尚の書である、という記述も見られるが、絶対確実な証拠ではないという。とはいえ、筆跡は類似しているのだとか。
布袋国広の作られた天正18年は、秀吉による天下統一が成った年であり、小田原北条氏が滅亡した年、そして小田原北条氏に従い、国広に山姥切の制作を命じた長尾顕長が常陸へ身柄を預けられた年でもある。そう考えると、国広の心中が窺えるような気もしてくる。
戦乱とその平定後の世を生きた国広、数多の栄枯盛衰が傍らを通り過ぎていった刀工の目には、何が映っていたのだろうか。
刀剣画像:「脇差 銘 日州住信濃守國廣作(号 布袋国広)」(公財)足利市民文化財団所蔵
取材協力(順不同)
・足利市民文化財団
・足利市郷土刀研究会
・足利学校
主要参考文献
・川瀬一馬『足利学校の研究』講談社
・『国広大鑑』財団法人日本美術刀剣保存協会
・足利市公式サイトより「足利学校の歴史」ページ(https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/rekishi.html)
・足利学校発行資料『足利学校を訪れた主な人々』『足利学校で学んだ主な人々』
・足利市立美術館『山姥切国広展』パンフレット 足利市教育委員会文化課