『麒麟がくる』で間宮祥太朗さんが演じる明智秀満(左馬助)。彼には、山崎の戦いで光秀が敗れた後、馬にまたがって琵琶湖を横断して逃亡したという「湖水渡り」の伝説が残されています。皆さんもご存じのように、琵琶湖は日本最大の面積と貯水量を誇る巨大な湖。普通に考えれば、とても不可能な逃亡劇です。そのため、結論から言えば、残念ながら湖水渡りはあくまで伝説に過ぎないと言わざるを得ません。
しかし、興味深いのはこの伝説が「根も葉もない話」ではなく、ある程度実際の史実をもとに創作された可能性が指摘されていることです。2020年の5月に石山寺で発見された最新の文書を活用しつつ、「歴史が伝説になっていく面白さ」を解説していきます!
そもそも明智秀満って誰?
秀満の伝説を語る前に、そもそも彼がいったいどんな人物であったのかを整理しておくべきでしょう。しかし、ハッキリ言って史実における秀満の姿はよく分かっておらず、彼の足取りが確かな史料から確認できるようになるのは天正6(1578)年ごろとされています。これは秀満の「湖水渡り」伝説が生まれる、さらに言えば彼の死からわずか4年前のことであり、それまでの生涯は謎に包まれています。
あまり信頼はできないものの、明智家の事績を後世に伝える軍記物『明智軍記』などによれば、まさに『麒麟がくる』で描かれているように明智光安の子で、光秀とは従兄の関係にあったよう。つまり、秀満の出身は言うまでもなく明智家であり、この場合やはり幼少期から明智一門として光秀の活躍を支えたと考えるべきでしょう。
一方、近年では秀満は明智家の出身ではなく、彼らにとっての家臣筋にあたる三宅氏という一族の出身であるという指摘もなされます。そもそも、秀満は長きにわたって「三宅弥平次(みやけやへいじ)」という名を名乗っており、ここにも三宅氏の系譜を感じられます。また、一説には天正9(1581)年に光秀の娘・秀林院(しゅうりんいん)と結婚したことで姓を明智に改め、光秀の養子になったという見解も。
いずれにせよ光秀がかなり信頼していた家臣であることは間違いなく、秀満が自他ともに光秀の側近であることを認めているであろう書状が残されているほか、天正9(1581)年には光秀の丹波国(現在の京都府)支配の要となる福知山城を預かっています。
光秀とは親子ほど離れた年齢だったと考えられており、武将としてはかなり順調に出世しているような印象を受けます。
しかしながら、そんな秀満も主君・光秀が引き起こした「本能寺の変」によって、運命を大きく狂わされるのです。
「湖水渡り」の伝説
本能寺勃発の数時間前、秀満を含む5人の重臣は光秀から謀反の計画を聞かされたと言われています。彼らはあまりに大胆なやり口に驚き、さまざまなことを光秀に伝えたのではないでしょうか。しかし、最終的には主君の思いに従う形で意見を統一し、本能寺へ向けて兵を出していったといいます。また、他の誰よりも先に秀満一人に相談が持ち掛けられたという史料もあり、そこで秀満は計画に反対しました。ところが光秀が他の重臣たちにも相談を持ち掛けたことを知ると、「事が露見するくらいなら一か八かに賭けたほうがマシだ」と、一転して光秀の計画を後押ししたとも。
どちらの説も有力とは言い難く、出陣前にどのようなやり取りがあったか確かなことは分かりません。しかし、光秀軍が本能寺を急襲し、信長を討ち取る大戦果を挙げたことはご承知の通り。彼自身は本能寺攻撃軍の先鋒を務めたとも言われ、変後は信長の築いた安土城へ入って次なる戦いに備えました。
が、光秀は羽柴秀吉の中国大返しや盟友による裏切りなど予期せぬ事態に直面し、非常に不利な形で山崎の戦いに挑まなければならなくなりました。
秀満は引き続き安土の守りを固めましたが、肝心の光秀軍が大敗を喫し、戦況が絶望的なものになってしまいます。光秀の敗北を知った秀満は、わずかな手勢を引き連れて明智家の本拠である近江の坂本城を目指しました。
ただ、安土から坂本へ向かうには琵琶湖を渡らなければならず、一方ですでに湖岸は秀吉軍の一角・堀秀政(ほりひでまさ)の勢力下にありました。
秀満率いる部隊も間もなく包囲され、将兵はつぎつぎと討ち死にしていったといいます。
「舟を使うことも難しく、かといって回り道をすることはできない。そうだ!」
火事場の馬鹿力を発揮したか、秀満は「馬に乗って湖を渡る」という大胆な策に出たのです。「どうせすぐ沈むだろ」と秀政軍が馬鹿にしていると、秀満は巧みに馬を操り、あっという間に対岸へ着いてしまったといいます。こうして琵琶湖を渡った秀満は、目論見通りに坂本城へ入りました。
しかし、いくら湖水渡りに成功したからといって絶望的な戦況に変わりはありません。秀満は「もはやこれまで」と考え、来襲する秀政に明智家に伝わる家宝を贈ったといいます。戦でせっかくの家宝が焼け落ちるくらいなら、たとえ敵でも譲っておこうと考えたのでしょう。そして、秀満は光秀の妻子と自らの妻を殺し、最後に自害したと伝わります。
湖水渡りの伝説はなぜ生まれたか
湖水渡りの伝説を知ってまず一番に思ったのは、「イヤ、琵琶湖を馬で渡るって無理じゃね?」ということでした。実際、琵琶湖で最も幅が狭い場所でも対岸までは約1.34kmの距離があり、水につかりながらというのは現実的には思えません。加えて、そこには当然敵がいたわけであり、伝わるように「敵が笑って見てくれていた」というのは少し不自然に思えます。事実、湖水渡りについては従来から「あくまで伝説に過ぎない」と考えられており、軍記物にありがちな「ウソ」でしかないと言われることもありました。一方、実際は海戦の結果として対岸へたどり着いたとか、本当は限りなく陸上に近い浅瀬を選んで渡ったとか、さまざまな考察がなされてきたことも事実です。
そして、まさに大河ドラマで秀満が登場するこの2020年に、彼の湖水渡り伝説がどういうものだったのかを知る手掛かりが発見されたのです。各種報道でご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、2020年の5月に滋賀県大津市の石山寺でとある文書が見つかりました。名前を「山岡景以舎系図(やまおかかげこれいえのけいず)」といい、文字通り山岡家の由緒をまとめた系図です。
その中に、先ほども触れた秀満の別名「弥平次」が登場しています。彼は本能寺の変勃発の直後、安土城へ入ろうとした際に信長方についていた山岡景隆(やまおかたかかげ)軍によって瀬田の橋を焼き落とされ、やむなく湖上で舟による海戦を挑まなければなりませんでした。しかし秀満は信長軍に敗れ、最終的に琵琶湖は渡れなかったよう。湖水渡りの伝説とは琵琶湖を渡ろうとしたタイミングや方法が異なり、またそもそも湖を渡ることができなかったというのが実際のところだったのだと考えられます。
この史料は山岡家の由緒を伝えるものであり、常識から考えて山岡家に都合の良い内容が書かれていると思われます。また、史料が偽文書である可能性もあり、確かなことは研究者による史料考証が進んでみないとなんとも言えません。しかし、興味深いことに信長の事績をかなり正確に伝えている史料『信長公記』にも、「明智軍が瀬田で進軍を阻まれた」という記載が登場するので、他の史料と辻褄が合うこともまた事実なのです。
ここからは私の推測ですが、恐らく湖水渡りの伝説を描いた江戸時代の人たちは「秀満が琵琶湖を渡ろうとした」という部分は、風のウワサ程度に知っていたのではないかと思います。ただ、詳細な部分が分からなかったことと、物語の都合上渡り方やタイミングを調整する必要があったことから、「山崎の戦い後に騎馬で渡った」と作り替えられたのではないでしょうか。
従来、湖水渡りのように無理のある伝説は「歴史研究の世界では何の役にも立たない作り話だ」と言われてきました。しかし、近年ではここで示してきたように「伝説が作り話だったとして、じゃあ一体その作り話はどうして生まれたのだろうか」という点も重視されるようになっています。皆さんも、歴史上の伝説を単なる作り話として全否定してしまうのではなく、その作り話が生まれた背景にまで考えをおよばせてみると、また違った歴史の見方ができるかもしれません。