Culture
2020.10.28

戦国最強の島津をビビらせた女?16回もの攻撃を凌いだ知略、妙林尼ら戦国の強〜い女性たち

この記事を書いた人

戦国時代の戦う女性たち【前編】泥酔した夫の代わりに籠城戦?34人の侍女たちを従えて突撃?勇猛果敢な戦国女性烈伝!に続いて、【中編】は、気も腕も強~い女性たちを中心にお送りいたします!

戦国時代は戦う女性がいっぱい!

男性は戦場へ、女性は家でただ祈るばかり。そんな戦国時代のイメージが崩れていく、戦う女性たちのエピソードを、今回も盛りだくさんでお届けいたします!

高遠の女武者、ここにあり!

天正10(1582)年3月2日、織田信長の命により、信忠が信州(現在の長野県)の高遠(たかとお)の高遠城を攻めます。この際に、高遠軍・諏訪頼辰(すわ よりとき)の妻「はな」が刀を抜き放って獅子奮迅の働きを見せました。
夫婦ともども討ち死にしてしまったのですが、信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』には、「比類なき働き前代未聞の次第なり」と書き残されています。

母は強し!

上野(こうずけ/現在の群馬県)新田金山城(にったかなやまじょう)主・由良成繁(ゆら なりしげ)の妻は、夫の死後に出家して妙印尼(みょういんに)を名乗ります。

天正12(1584)年、息子の国繁(くにしげ)・顕長(あきなが)を北条氏に人質として取られると、新田金山城に籠城して和睦に持ち込むことに成功、天正18(1590)年に豊臣秀吉による小田原征伐で国繁が小田原城に籠城していたときには、桐生城(きりゅうじょう)を預かり守るだけでなく、息子たちの助命も勝ち取るなど、心強い支えとなりました。

やばい!道を変えろ……!あの加藤清正が恐れた女性!?

7歳で父から家督を譲られ、文武ともに優れ、夫の言うことなんかちっとも聞かず、極めつきは、あの加藤清正に彼女の陣取る地を避けて通らせた……それが誾千代(ぎんちよ)姫です。

豊後大友家の名将・立花道雪(たちばな どうせつ)の娘である誾千代姫は、幼い頃から城主としての教育を施されており、そのプライドもあったのか、婿養子である夫の宗茂(むねしげ)とは衝突が絶えなかったといいます。

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、加藤清正が西軍についた宗茂に柳川城開城の説得にきたとき、立花領へ向かう街道は2つありました。清正は、誾千代姫が陣を張っていないほうを選び、交戦を避けたのでした。

▼誾千代姫についての詳細はこちら
勇猛果敢な加藤清正をひるませた女。戦国時代最強の女城主?闇千代列伝!

実家? だから何だっていうのよ!

阿南(おなみ)姫は、米沢城主・伊達晴宗(だて はるむね)と、奥州一の美少女と謳われた久保姫の娘です。
夫である須賀川城(すかがわじょう)主・二階堂盛義(にかいどう もりよし)が病死すると、阿南姫は出家して大乗院(だいじょういん)を名乗り、城主を引き継いで統治を行いました。

伊達政宗が長年同盟関係にあった蘆名(あしな)氏を攻撃すると、政宗の伯母にあたる阿南姫は実家に敵対することを選びます。天正13(1585)年の人取橋(ひととりばし)の戦いでは、蘆名氏・佐竹氏・白川氏・岩城氏・相馬氏らと手を組んで政宗に対抗派兵し、3年後の郡山合戦でも蘆名氏・相馬氏と組んで対抗しています。

天正17(1589)年、蘆名氏は政宗に敗れ、滅ぼされます。しかし阿南姫は再三の降伏勧告を拒絶し、佐竹氏の援軍を受けながら、またも家臣らとともに抵抗、しかし須賀川城は1日で落城してしまいました。

阿南姫は自害しようとしますが、伊達の兵に押しとどめられます。
その後も、与えられた住まいを嫌い、甥の岩城常隆を頼るなど、最後まで政宗に諾々と従うことはありませんでした。

戦国最強の島津をビビらせる!?16回もの攻撃を凌いだ知略

豊後(現在の大分県)の鶴崎城(つるさきじょう)主・吉岡鑑興(よしおか あきおき)の妻は、夫の戦死にともなって出家し、妙林尼(みょうりんに)を名乗ります。
息子(孫説もあり)の統増(むねます)が跡を継ぎましたが、天正14(1586)年、対島津軍の援軍のため、統増が軍勢を率いて主君・大友宗麟(おおともそうりん)の丹生島城(にゅうじまじょう)へ向かうと、鶴崎城の守りは妙林尼に任されることとなります。

残されたのは、僅かな兵のほか、老兵・農民・女性や子どもばかり。妙林尼は鎧と陣羽織・額に鉢巻・手には薙刀(なぎなた)という姿で完全武装し、農民や女性に鉄砲の使い方を教えます。また、板や畳を持ち寄らせて板塀(いたべい)を巡らせ、その他にも落とし穴や底がⅤ字形の堀を築くなど、あらゆる防御施設を備えさせました。

島津の16回にも及んだ攻撃を凌いだ妙林尼でしたが、最後には降伏します。
妙林尼は、城内全員の命の保証を条件として鶴崎城を開城、互いの健闘を称えるかのように、島津の諸将を酒などでもてなしたといいます。

しかし、実はこれでは終わりません。翌年3月、薩摩への退却の命が下った島津軍を見送った妙林尼は、一計を案じていました。
引き上げていく島津軍を乙津川で急襲、島津兵は大将含め300人以上が戦死、妙林尼は鶴崎城を奪還したのでした。

敵将の首など63個を亡き夫の主君である大友宗麟へ差し出した妙林尼に、感心した豊臣秀吉は会いたがりますが、妙林尼は首を縦には振らなかったといいます。

▼妙林尼についての詳細はこちら
猛女・妙林尼。愛ある戦いに戦国最強の島津もびびった!

夫の甲冑を纏って

天正17(1589)年の天正天草合戦では、天草種元(あまくさたねもと)の本渡(ほんど)城に身を寄せていた木山正親(きやま まさちか)の妻・お京の方が参戦しています。

正親は猛将として名を馳せていたのですが、豊臣秀吉配下の小西行長・加藤清正らの前に、ついに敗れます。

籠城に入った本渡城(ほんどじょう)にも秀吉軍が押し寄せ、お京の方は亡き夫の甲冑を纏って、同じく甲冑に身を固めていた女性たちとともに2、30騎で討って出ます。
しかし、兜が梅の枝に絡んで身動きが取れなくなったところを、あえなく討ち取られてしまったといいます。

お京の方は、梅の木に「花は咲かせても、実は実らぬ」と恨みごとを遺したといい、天草市の延慶寺には、今もこのときのものとされる「兜梅」が植えられています。

次回は後編、戦国時代の終わりごろを中心にお送りいたします!

アイキャッチ画像:歌川国芳『源氏雲浮世画合 玉鬘 / 玉取蜑』メトロポリタン美術館より