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2019.12.09

上杉謙信とは何者だったのか? 乱世に挑んだ越後の龍!【武将ミステリー】

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上杉謙信といえば、戦国時代最強を謳(うた)われた越後(現、新潟県)の武将として知られます。軍神・毘沙門天(びしゃもんてん)の加護を信じ、生涯不犯(ふぼん)を通して、助けを求める者に手を差しのべました。しかし天才的な戦術家といわれる武将も、多くの悩みと苦難に直面しています。長尾景虎(ながおかげとら)と名乗った前半生を、7つのポイントで紹介します。

1.禅寺で高僧の教えを受けた幼少期、仏門で何を学んだのか?

長尾景虎(後の上杉謙信)は享禄3年(1530)1月21日、越後(現、新潟県)守護代・長尾為景(ながおためかげ)の3男(異説あり)に生まれます。幼名は虎千代。長兄の晴景(はるかげ)はすでに成人していました。また姉の仙桃院(せんとういん)は2歳年上とされます。

ちなみに、後に戦うことになる武田信玄(たけだしんげん)は9歳年上、北条氏康(ほうじょううじやす)は13歳年上、織田信長(おだのぶなが)は4歳年下でした。

家を継ぐ予定のない男子は他家に養子に行くか、寺に入るのが当時のならいです。景虎も7歳で、春日山(かすがやま)城下の禅寺・曹洞宗(そうとうしゅう)林泉寺(りんせんじ、上越市)に入りました。同じ年、父・為景が隠居し、兄の晴景が長尾家の家督を継ぎます。

景虎は戦国武将の中でもとりわけ仏教に傾倒(けいとう)した人物として知られますが、その素地は生母・虎御前(とらごぜん)が信心深かったことと、林泉寺で生涯の師となる天室光育(てんしつこういく)に出会ったことにありました。

活発だったという少年時代の景虎にとって、写経や坐禅を組む日々は窮屈であったでしょうが、曹洞宗の禅が重んじる「只管打坐(しかんたざ)」は、坐ることが修行でした。そこに成果や悟りといった見返りは求めてはなりません。つまり「打算的な心や私利私欲を捨てること」を修行したわけで、少年の純粋な心に少なからぬ影響を与えたことが想像できます。また師の天室光育からは禅だけでなく、兵学も学んだ可能性がありました。当時の景虎が城郭模型で遊んだり、勇ましい遊びを好んだという話も伝わっています。

しかし天文10年(1541)に父・為景が没すると、越後は不穏な空気に包まれます。景虎は雪の中、甲冑をまとって父の葬儀に参列しました。それほど不測の事態が起きかねない、緊迫した状況であったのでしょう。ほどなく景虎は寺を出て城に戻り、元服しました。

2.父・為景が没した当時の越後はどんな状況にあったのか?

春日山城跡(上越市)から望む越後

亡くなった父・為景は「下剋上(げこくじょう)」によって越後の実権を奪った、したたかな人物です。長尾家は守護代、つまり守護の代理ですが、為景は主である越後守護・上杉房能(うえすぎふさよし)を自刃(じじん)に追い込み、房能の養子・上杉定美(さだよし)を傀儡(かいらい)の守護に据えて、実権を掌握しました。

この事態に、死んだ上杉房能の実兄である関東管領(かんとうかんれい)・上杉顕定(あきさだ)が怒ります。関東管領は本来、鎌倉公方(かまくらくぼう)の補佐役ですが、当時はそれにとって代わる勢力があり、顕定は大軍を率いて越後に攻め込みました。ところが為景はなんと長森原の戦いで顕定を破り、敗死させるのです。以後、為景は越後及び周辺国に影響力を保持したまま隠居し、にらみを利かせていました。

そんな為景が没すると、鳴りをひそめていた反為景の勢力が一気に騒ぎ始めます。病弱な晴景ではとてもこれを鎮められません。元服した景虎は、兄・晴景より敵対勢力を鎮圧すべく、栃尾(とちお)城(現、長岡市)に入ることを命じられました。時に景虎14歳

3.なぜ兄に代わって長尾家の家督を継ぎ、なぜ生涯不犯を誓ったのか?

春日山城跡の上杉謙信像

栃尾城に入った景虎が年少であることを侮(あなど)り、近在の勢力が攻め寄せますが、景虎は撃退。これが初陣でした。続いて景虎は、兄・晴景から実権を奪った黒田秀忠(くろだひでただ)の乱を鎮めます。この鮮やかな手腕を周囲が認め、越後守護・上杉定美の勧めや、病床にあった兄・晴景の要請もあって、天文17年(1548)、19歳の景虎は兄より長尾家の家督を譲られました。

従来、景虎は兄を討って家督を継いだと語られていましたが、晴景が病没したのは5年後の天文22年(1553)だったことがわかっています。むしろ景虎は、望んで家督を継いだわけでなく、「野心を持って家督を簒奪(さんだつ)した」と思われることを嫌いました。

上杉謙信が生涯、不犯を通したのは宗教上の理由であったとされますが、もう一つの理由がここにあったのかもしれません。景虎は守護代長尾家の家督を一時的に預かったに過ぎず、兄の子が成人すれば返上するつもりであることを、自らの子をなさないことで示そうとしたとも考えられるのです。実際は晴景の子も病死してしまうのですが、しかし景虎は掌(てのひら)を返すことはせず、後に姉・仙桃院の息子である景勝(かげかつ)を養子に迎えました。これが、景虎が大切にした物事の「筋目(すじめ)」であったのかもしれません。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。