吉村“ポップ”秀雄は、世界二輪車史を語る上で欠かせない重要人物である。
排気効率に優れた集合マフラーを開発し、世界各地の名だたる二輪車レースをチューニングの技術一本で制覇した。ヨシムラの登場以前の二輪車レースとは、大手メーカーがラボの中で完成させたマシンを思う存分に走らせる「巨大な実験場」だったが、ヨシムラのメカニックチームはレース直前にピットの中でマシンを改造してしまう。
70年代、既にアメリカでは「ヨシムラの改造したマシンは規格外のパワーを帯びる」ということが知れ渡っていた。我々現代人もよく知っている片仮名の「ヨシムラ」というロゴは、「アメリカ人が唯一読める日本語」と言われるほどだった。が、そのロゴは一時期、ヨシムラの知名度だけを狙う詐欺師の手に握られてしまった——。
エンジン家族のアメリカ進出
1969年、NHKは『ある人生』というドキュメンタリーシリーズ番組で吉村一家を取り上げた。
エンジンの改造一筋に生きるポップは、市販車をレーシングマシンにしてしまう技術者として国内では既に有名人だった。ところが工場の管理や経理などにはまったく興味がなく、売掛金を回収しないせいで妻や長女から愚痴られている。何と、テレビカメラの前で口論する始末だ。
洗濯物を干すお母さん、見るからに気難しそうなお父さん、額に汗して必死に働く娘。ヨシムラが世界的な知名度を得る前の貴重な映像史料であると同時に、昭和日本の中流家庭を余すところなく収めているフィルムだった。
この番組の放映から間もなく、ヨシムラにとってのビッグチャンスが訪れた。
ポップの知り合いだったアメリカ人バイクディーラーが、「モーターレースの本場」として知られるフロリダ州デイトナのレースに出ないかと誘いをかけてくれたのだ。バイクは既にあるから、それをチューニングしてほしい。ポップの手で改造されたマシンは、スタートからしばらくは無敵の独走を続けた。結果的にはカムチェーンが切れてリタイアしたものの、日本の小さな町工場が手がけたマシンのパフォーマンスに観客は熱狂した。すると、アメリカから部品の注文が舞い込むようになる。「俺たちもヨシムラのパーツが欲しい!」ということだ。
そこから僅か数年のうちに、ヨシムラの名は北米大陸に伝搬した。何でもパッケージ化されたものを選びたがる日本人とは違い、アメリカ人は自分の手でカスタマイズする習慣を身に着けている。プロのレーシングライダーではない者も、片仮名で「ヨシムラ」と書かれたパーツを購入して愛車に装着した。
新会社設立の提案
そんな中、アメリカのビジネスマンを名乗るデール・アレキサンダーとスター・トンプソンという人物がヨシムラを訪れた。
この2人は、当時のヨシムラにとっては上得意の顧客だった。訪日の度に大量のヨシムラ製品を買い込み、アメリカで売る。そのビジネスは大成功を収め、ポップとも懇意だった。
そこへアレキサンダーが、
「アメリカで新会社を作らないか。保有の割合は50:50で構わない。カリフォルニア州に拠点を構えて、ポップの作った製品をそこで売る」
と、提案した。
ポップは乗り気になり、契約書にサインした。この時、ヨシムラを象徴する発明品である集合マフラーは既に登場している。新開発のこのマフラーは、必ずやアメリカ中のサーキットを制覇してくれるに違いない。儲けなど二の次だ。
日本の頑固オヤジは、アメリカのレースの頂点に立つ光景を思い描いていた。
二輪車を進化させた「手曲げ集合マフラー」
バイクの4気筒エンジンから飛び出た4本のエキゾーストパイプは、それぞれにマフラーが結合される。昔はマフラー1本=エキパイ1本だったが、今はマフラー1本=エキパイ4本が主流である。つまり、複数本のエキパイをどこかで集合させるのだ。二輪車でそれを最初に実行したのは、ポップである。
マフラーを1本にすることで、排気効率が格段に上がる。排気がスムーズになるということは、吸気もスムーズになるということだ。すると、エンジンの回転数が増してくる。
ところが、大きな問題もあった。4気筒エンジンの4本のエキパイは、複雑な曲線を描きながら他の部品と接触しないように設置されている。それを1本にまとめるとなると、さらに微妙かつ繊細なアーチにならざるを得ない。そのようなことができる専用の工作機械は、当時まだ存在しなかった。
では、どうするか。ポップはガスバーナーと2本の腕を使ってマフラーを曲げたのだ。
合理的な設計ではあるが、生産に手間のかかるヨシムラ手曲げ集合マフラーはアメリカでセンセーショナルを巻き起こした。これをマシンに装着すれば、馬力が飛躍的に向上する。狼の咆哮のようなヨシムラサウンドは、ライダーたちの胸を鷲掴みにした。
「勘当だ、出て行け!」
ポップの作った製品は、アメリカで売れに売れた。
が、アメリカ法人の共同経営者であるアレキサンダーとトンプソンからは、いつまで経っても製品の仕入れ代金が振り込まれない。
実はこの2人は、貨物航空会社のパイロットと航空機関士だった。仕事で日本に行くついでにヨシムラの製品を買い、それを手荷物という名目で自分の操縦する飛行機に乗せてアメリカへ運ぶ。そうすることで、通関を逃れていたのだ。
もっとも、怪しい気配は以前から漂っていた。ポップの長女・南海子とその夫の森脇護は、早い段階でアレキサンダーとトンプソンに不信感を抱いていたという。故にポップの渡米にも反対していた。
ところが、これが原因でポップは森脇夫妻を勘当してしまう。
現在、ヨシムラと同じ字体のロゴを持つモリワキというメーカーが存在するが、このモリワキエンジニアリングは以上の経緯をたどった末に創業された企業である。一家共倒れを何とか回避するためだ。
そして、森脇夫妻の不安は現実のものとなった。
銃を突きつけられたポップ
ヨシムラの製品を売って大儲けしていたアレキサンダーとトンプソンは、ポップとの約束を反故にし続けた。
豪遊の一方でポップを在庫置き場に近づかせず、何と銃を突きつけて追い払うという蛮行に出た。しかもポップに無断で設備投資を行い、部品を大量生産できる工場を建てていた。
ヨシムラのロゴをポップから奪い取り、あとはライン生産の部品を濫造して売れば儲かるに違いないという態度である。当然、ポップは激怒した。
この騒動は裁判所に持ち込まれた。が、結局は50:50の出資比率は不動のままという判決になってしまった。裁判費用の2万ドルはフイになり、現地法人には引き続きアレキサンダーとトンプソンが君臨した。
何もかも失ったポップが帰国したのは、1975年1月のことである。
この時点で、ポップは日本にあった工場を売っていた。アメリカでの事業に集中するためだ。しかし今や、投資してきたカネはアメリカの詐欺師に吸い上げられてしまった。何もかも失くしたポップを待っていたのは、三重県鈴鹿市に建てられたモリワキの工場だった。
「オヤジがやり直すために」と、森脇夫妻が小さな工場を用意していたのだ。
「ヨシムラ」と「YOSHIMURA」
しかし、ポップはアメリカを諦めていなかった。
叩きのめされたポップが帰国したのは75年1月と先述したが、それから僅か3ヶ月後に再渡米している。『YOSHIMURA R&D』という新会社を設立するために。この時、片仮名の「ヨシムラ」のロゴは使えなかった。アレキサンダーとトンプソンがポップから強奪した商標登録だからだ。だから新会社のロゴは「YOSHIMURA」である。視点を変えれば、詐欺師たちは粗悪な製品に「ヨシムラ」のロゴをつけて売っていたということだ。
ヨシムラレーシングを乗っ取ったアレキサンダーたちは、「ポップ(吉村)はニセモノだ」「パールハーバーを忘れるな」と悪宣伝を繰り返し、粗悪なイミテーションパーツを「ヨシムラ」名で売るものだから、それらの事情を一つひとつ説明して、名誉回復しなければならなず苦労させられた。
(『ポップ吉村物語』原達郎)
アメリカのライダーたちは、今この瞬間にも偽のヨシムラに粗製濫造の製品を買わされている。ならば、もう一度俺が行って本物と交換しよう。詐欺師共は俺の手曲げ集合マフラーで必ず潰す!
ポップは乗っ取り騒動を知らずに「ヨシムラ」を買ってしまったライダーに対し、「YOSHIMURA」の製品との無償交換を開始した。同時にポップの手による高品質の製品が再びアメリカに流通するようになり、「YOSHIMURA」こそが本物のヨシムラということがすぐに認知された。
粗悪品を製造し続けたアレキサンダーとトンプソンは、もはや「ヨシムラ」を使い続けることができなくなった。社名を『デール・スター・エンジニアリング』と替え、「ヨシムラ」のロゴを放棄する。
今日見かける片仮名の「ヨシムラ」は、ポップの長男・不二雄が引き継いだヨシムラジャパンのものであり、「本物のヨシムラ」だ。それは職人家族が命がけで奪還した、かけがえのない財産である。
大火傷を乗り越えて
低品質の製品しか供給できないデール・スター・エンジニアリングの命運は、この時点で尽きていた。
アメリカの顧客は、本物と偽物の違いを理解していた。その上、先述の税関逃れの件を当局に告訴され、アレキサンダーに5万ドルの罰金が科された。会社は倒産し、その2年後にアレキサンダーは心臓麻痺で落命している。
一方、ポップは「復讐の拠点」とも言うべきアメリカ法人の工場が全焼するという大災難に見舞われた。
ガソリンへの引火を防ぐために、タンクを抱えて工場から避難した。火災保険に入っているのだからガソリンタンクなど放っておいても構わなかったのだが、昔気質の日本人は「ウチで火事は出すまい」という認識で行動していた。結果、ポップは全身に大火傷を負った。
皮膚移植手術が行われ、その両手には麻痺が残った。もはやポップは引退するしかなくなった……という噂が立ったのは事実である。
が、ポップは引退しなかった。4ストロークエンジンのバイクを開発して間もないスズキからマシンを受け取ると、それをチューンして全米選手権で優勝させてしまったのだ。火災から半年後のことである。
そして、1978年の第1回鈴鹿8時間耐久レースでの優勝は、小さな町工場でも大企業に勝てることを証明した出来事だった。
一番最初にチェッカーフラッグを見るまで、俺は諦めない。ポップの神通力のような執念は、あらゆる災難を吹き飛ばして頂点に輝いたのだ。
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【参考】
【ヨシムラヒストリー09】会社乗っ取りに負けず、新生YOSHIMURAでアメリカ再上陸-BikeBros
『ポップ吉村物語』原達郎
「不屈の町工場 走れ 魂のバイク」―走破せよ 大志への道 プロジェクトX~挑戦者たち~NHK出版