禁制とされた洒落本を出版したとして、寛政の改革で財産の半分を没収された蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。
蔦屋重三郎とはどんな人物だったのでしょうか。
浮世絵界のゴッドファーザー
若き日の葛飾北斎をときに叱咤、ときに励ましながら導き、美人画で有名な喜多川歌麿の創作をサポートし、無名時代の滝沢馬琴を番頭として雇い、東洲斎写楽の役者絵を大々的に売り出すなど、出版業界のゴッドファーザーとして大きな存在感を残す。これが蔦屋重三郎の晩年の一面です。
その生涯を振り返ってみると、叩き上げから出版業界のトップにまで上りつめた男の、ちょっと意外な素顔が見えてきました。
江戸の遊郭、吉原生まれ
蔦屋重三郎は1750(寛延3)年、江戸の新吉原生まれ。“本屋の重さん”として頭角を現すのは24~25歳頃です。1774(安永3)年刊の『吉原細見(よしわらさいけん)』に改め・卸として蔦屋重三郎の名前が登場。このときはまだ、親戚の家の軒先を借りての商売です。
『吉原細見』って何?
吉原細見は幕府公認の遊郭だった吉原のガイドブックのようなもの。改めというのはどこの遊郭にどんな遊女がいて、料金はいくらかなどの情報を収集して改訂する編集作業です。卸というのは小売りのこと。
吉原生まれの本屋の重さん、またの呼び名を蔦重(つたじゅう)は、きっと遊郭に顔が利いたのでしょう。そうはいってもメールも電話もない時代、地道に足を使う仕事だったに違いありません。
これを足掛かりに、蔦屋重三郎の快進撃がはじまります。
1775(安永4)年頃には吉原細見の発行そのものを手掛ける版元になり、しかもレイアウトを工夫してページ数を抑え、価格破壊に成功するのです。お見事!
30歳になる頃には親戚の家の軒先から独立して吉原の大門口に店を構え、黄表紙や洒落本など戯作(娯楽本)の出版へとビジネスを拡大していきます。
遊女をプロデュース
蔦屋重三郎の最初の出版物とされるのが、1774(安永3)年刊の『一目千本』。これは吉原の遊女を当時流行の挿花にたとえた評判記で、妓楼がお得意先などに配るような販促物だったと思われます。
遊郭は主に生活に困って売られた娘たちの苦界でしたが、江戸っ子たちは家族のために奉公する遊女を偏った目で見るようなことはなく、年季の明けた彼女らをむしろ讃えたといいます。
トップクラスの遊女ともなれば財政界の大物と対等にやりとりをするような教養もあり、人々が一目会いたいと憧れるスターのような存在でした。
蔦屋重三郎は吉原をテーマにした本を次々と手掛け、遊女たちを知的で上品にプロデュース。江戸の粋なエンターテインメントとして宣伝をしかけていきます。
江戸のメディア王へ
1783(天明3)年33歳のとき、ついに老舗が並ぶ日本橋の通油町へ出店。黄表紙や洒落本のヒット作を蔦屋版が独占します。
実は当時、戯作者の多くは武士の階級出身でした。黄表紙を代表する朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)は秋田藩の江戸留守居役、狂歌師の太田南畝(おおたなんぽ)は勘定所勤務の役人です。趣味が高じて副業にといったところでしょうか。
版元は時代の流れを読んで、戯作者に本の内容を指示することもありました。蔦重のような叩き上げの商人と、本来であれば身分の違う武士とが意気投合して遊び心あふれる作品を生み出し、庶民を熱中させたなんて、それこそが江戸の出版文化のおもしろいところ。
それにしてもたった数年でここまで事業を拡大できるとは、蔦屋重三郎という人はよっぽどの商才を持っていたのでしょう。
そしてまた、違う一面も持っていたようです。
「蔦唐丸」狂歌に熱中
「青本の春は来にけりひとはけに霞むあなたの山東より 蔦唐丸」
歳旦狂歌集『どうれ百人一首』(1793)より
狂歌というのは和歌をもじって、下ネタなど俗っぽさを織り込んだものです。その内容からもともとは「詠み捨て」といってその場だけで楽しむものでしたが、江戸時代に『千載和歌集』のパロディ『万載狂歌集』が出版されると大ヒット。江戸に狂歌ブームが巻き起こります。
蔦重はその波にしっかりと乗ります。
「蔦唐丸(つたのからまる)」の名で自身も狂歌師として活動。歌会などのイベントを主催して、そこで詠まれた狂歌を次々と独占出版したのです。やがて狂歌師たちにとっては、蔦屋版の狂歌絵本に載るのが憧れに。
もちろん蔦重には商売心があったでしょう。けれど、作品作りに一歩踏み込んで参加することに、無邪気な喜びや楽しさも感じていたのではないでしょうか。
こうして蔦屋重三郎のもとには人が集い、新しい作品が生まれるという流れができて、押しも押されもせぬメディア王の誕生。
江戸時代の絵本は今日のような子ども向けのものではなく、絵がメインの大人向けの本です。その挿絵師として、のちに美人画で名を馳せる喜多川歌麿や、『冨嶽三十六景』などの風景画で有名になる葛飾北斎が起用されているのも興味深い点。歌麿の生き生きとした美人画は、挿絵時代に観察力を養ったからこそ描けたともいわれています。
人気作家の懐にそつなく入り込む一方で、見込みのありそうな若手にチャンスを与えたり、家に住まわせて面倒をみたりする一面も、蔦重にはありました。
41歳で財産の半分を失い、「大首絵」で起死回生を図るが……
順風満帆にも見える蔦重の人生ですが、1791(寛政3)年、41歳のときに出版規制に従わなかった罰として財産の半分を没収されてしまいます。
禁止されていた洒落本を『教訓読本』の袋に入れて売っていたといいますから、やりすぎといえばやりすぎ。作者の山東京伝は手鎖50日の罰を受け、それをきっかけに武士階級の戯作者たちが続々と筆を折りました。
けれども蔦重はあきらめません。挽回の一手として繰り出したのが、喜多川歌麿の美人大首絵。「大首絵」は上半身のアップを描いた浮世絵のことです。
しかしその後、「江戸わずらい」といわれた脚気に倒れ、1797(寛政9)年、蔦屋重三郎は47歳で生涯をとじます。
総力をあげて東洲斎写楽の役者絵を売り出したのは、亡くなる3年前のこと。しかし、役者の特徴をリアルに描きすぎているとファンに嫌がられ、あまり売れませんでした。
常に時代を読んでヒットを飛ばしてきた蔦重の勘も、晩年になって鈍ったのでしょうか?
今、浮世絵といえばまずこの役者絵をイメージする人も多いでしょう。
「やっと時代が俺に追いついたか」
220年の時を超えて、蔦屋重三郎のそんな声が聞こえてくるような気がしませんか。
参考文献:
『別冊太陽 蔦屋重三郎の仕事』平凡社 1995年4月
『喜怒哀楽で見方が変わる! 浮世絵のすべて』双葉社 2014年2月
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江戸の蔦屋さん 1巻 (まんがタイムコミックス)