2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、平安時代末期~鎌倉時代前期が舞台です。
平安時代、国の中枢で政治や文化を担っていたのは、朝廷と貴族でした。しかし、鎌倉時代に入ると、武士が台頭して国を動かすようになります。
ただし、貴族文化が廃れたわけではありません。武士の世に移っても、都の貴族は自分たちの伝統を受け継いでおり、有職故実(ゆうそくこじつ/朝廷や公家の礼式・官職・年中行事などの先例)の研究が盛んになりました。
武士は当初、そんな貴族文化を受け入れる立場でしたが、次第に自分たちの気風に合わせて独自の文化を育てていきます。また、仏僧や庶民など、これまでとは違った層も文化に関わっていきます。
今回は、そんな鎌倉時代の文化をいくつかピックアップしてわかりやすくご紹介します。
新しい仏教ムーブメントと宋風文化
鎌倉時代でまず注目したいのが、仏教の影響です。
仏教が日本へ公的に伝えられたのは6世紀半ば。以後、その思想は皇族や貴族へ浸透し、平安時代には既に盛んに信仰されていました。
では、仏教の何が鎌倉文化の刺激になったかというと、新しい教えの誕生です。
少し時をさかのぼった平安時代後期、現世での救いよりも幸せな来世を願う「浄土信仰(じょうどしんこう)」が流行りました。
この思想を体系化した僧侶・法然(ほうねん)によって、承安(じょうあん)5(1175)年に浄土宗が開かれます。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば極楽浄土に行けるという教えはわかりやすく、貴族だけでなく武士や庶民にも広まりました。
この浄土宗をはじめ、鎌倉時代は新興の仏教宗派が次々に誕生します。それまでは主に国や貴族のためにあった仏教が、身分の低い人々にも間口を広げたのです。
時が経つにつれ、旧来の仏教側もこの影響を受けて変わっていきます。
これが、民衆が文化の担い手に加わるうえで大きな助けとなりました。
そして現在「Zen」として世界に広がっている禅宗は、鎌倉時代に宋の影響を受けて本格的に広まりました。
華美を好まない禅宗の思想は、芸術や建築、庭園、食など、さまざまな日本文化に影響を与えました。
鎌倉時代の文化は、こうした宋風を取り入れているのも特徴のひとつです。
現代でも愛される文学作品の数々
平安時代に続き、鎌倉時代もたくさんの文学作品が生まれました。
たとえば、『住吉物語』『とりかへばや物語』といった王朝文化を懐古するような物語文学は、時代が移ろったからこその人気がありました。
また、たくさんの戦乱と武士の台頭の結果、『平家物語』をはじめ『保元物語(ほうげんものがたり)』『平治物語(へいじものがたり)』など軍記物語が確立していきます。
また、説話文学も鎌倉時代に発展しました。
先述の物語文学が主に貴族社会のものであったのに対し、説話は人の口から口へ語りつがれていき、庶民から広く愛された伝説や世間話が中心でした。
大まかには、仏教の普及のために語られた仏教説話、貴族の事件や庶民の日常など世間の興味に沿った世俗説話の2種類に分かれます。前者は『発心集(ほっしんしゅう)』、後者は『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』『十訓抄(じっきんしょう)』が代表的です。
国語の教科書でよく取り上げられる随筆作品、兼好法師(けんこうほうし)の『徒然草(つれづれぐさ)』や鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』も、鎌倉時代に成立しました。
そして、忘れてはいけないのは、藤原定家(ふじわらのさだいえ/「ていか」とも)の存在。
定家は鎌倉時代初期に成立した『新古今和歌集』の編纂者のひとりで、他にも『小倉百人一首』の選者になったり、『源氏物語』などの作品の書写や注釈にも携わったりと、現代でもおなじみの古典文学に大きな貢献を果たしました。
美術工芸にも武士台頭の影響
「絵巻」というと平安時代のイメージを持っている人は多いかもしれませんが、実は鎌倉時代こそ絵巻が大きく発展した時期でもあるのです。
物語絵巻のほか、寺社の縁起(えんぎ/その寺や神社の由来等を説明したもの)を描いた縁起絵巻、軍記物語の絵巻もたくさん作られました。
また、この時代になると、似絵(にせえ)と呼ばれる肖像画が描かれるようになります。
もともと、高貴な身分の人物をはっきりと描写することは避けられていました。実在の特定個人が描かれるとしたら、高僧などの礼拝・信仰の対象となる人物です。
ところが、鎌倉時代に入るころになると、それぞれの人が持つ個性に関心が高まります。そして、信仰対象でない人物が写実的に描かれるようになりました。
東大寺再建に見る、新しい時代の息吹!
彫刻分野では、運慶(うんけい)・快慶(かいけい)に代表される、慶派(けいは)と呼ばれる奈良の仏師の一派が活躍しました。
運慶は武士との関わりが深く、鎌倉幕府関係者の依頼でいくつもの仏像を制作しています。その背景としては、貴族が都の仏師の一派である円派(えんぱ)や院派(いんぱ)を重用しており、慶派は新たな活躍の場が必要だったことが考えられます。
そんな慶派にとって転機となったのは、奈良の東大寺(とうだいじ)の再建です。
東大寺は、治承(じしょう)4(1180)年に平家の焼き討ちで、興福寺(こうふくじ)とともに多くの建築物を失いました。
先に堂塔の再建が進められた興福寺は、慶派も復興に関わっていたものの、円派・院派が主だったところを担当していました。
一方、東大寺は大仏の修復を行ってから大仏殿などの建物に着手します。そのとき中心となったのは慶派でした。ちなみに、東大寺復興には鎌倉幕府が協力しています。
そして建仁(けんにん)3(1203)年、運慶たちは後に国宝となる「金剛力士立像(こんごうりきしぞう)」を造ります。円派や院派の作風は、京の貴族の趣味に合った、保守的で穏やかな雰囲気でした。それに対し、慶派の作風は力強く写実的なのが特徴で、新しい時代を感じさせるものでした。
大仕事を見事にこなした慶派は、その後仏師の一大勢力となります。
また、この再建事業の責任者を務めた重源(ちょうげん)は、宋に3度渡ったとされる僧侶です。
彼は最新の宋の文化を取り入れて、大陸的な雄大さやを感じさせる「天竺様(てんじくよう/大仏様とも)」という建築様式を東大寺に導入しました。
この大仏様は、後に登場する「禅宗様(ぜんしゅうよう/唐様とも)」と並んで、鎌倉時代の代表的な建築様式となりました。
鎌倉時代は決して長い期間とは言えませんが、ここで紹介できなかったものはたくさんあります。
各時代の文化を代表的な部分だけ切り取って比べてみると、「どうしてこんなふうに変わったんだろう?」と不思議に思うかもしれません。
けれども、時代の境目に注目してみたり、それぞれの文化の繋がりをたどっていったりすると、とても面白いですよ!
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アイキャッチ画像:Colbaseより『平治物語絵巻(模本)院中焼討ノ巻』(東京国立博物館所蔵)をトリミング加工
主な参考文献
『禅の歴史』 伊吹敦/著 法蔵館 2001年
『日本中世史事典』 阿部 猛・佐藤 和彦/編 朝倉書店 2008年
『仏教の事典』 末木 文美士・下田 正弘・堀内 伸二/編 朝倉書店 2014年
『美術出版ライブラリー 歴史編 日本美術史』 山下裕二・高岸輝/監修 2014年