大好評の尾上右近さん(ケンケン)の連載、『尾上右近の日本文化入門_INTOJapaaaaN!』。今回選んだ美術鑑賞は、大阪のあべのハルカス美術館で開催中(~6月24日)の「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」。鈴木春信といえば、錦絵を誕生させたと言われる浮世絵師のひとりです。保存状態のよさで定評のある、ボストン美術館所蔵の美しい浮世絵が150点も勢揃いです!
今回の鈴木春信展覧会は、まずプロローグとして鈴木春信が影響を受けた時代の絵師たちの作品を紹介します。また、第1章〜第5章では時代をリードして一時代をつくった鈴木春信の作品をテーマ別に展示。さらにエピローグでは、春信に影響を受け、春信を慕って画風を真似た浮世絵師たちの作品を展示しています。さて、ケンケンが心惹かれて立ち止まる絵はどれでしょうか?
「さすがボストン美術館所蔵の浮世絵ですね。春信の作品でここまで状態がよく、色が残っているのは見たことがありません」と、高木編集長。「ええ。現在、世界中に残っている春信の浮世絵作品は約2千点と言われていますが、そのうちの約600点がボストン美術館にあります。今回は150点の作品を選りすぐり、春信の全体像を見ていただける展覧会になっています。この展覧会が終わってボストンに戻ってしまうと、しばらくは展示しないことになっています。浮世絵は休ませないと色が褪色するんですよ」と、学芸員の藤村忠範さん。「色が焼けちゃうということですか?じゃあ、今回は春信の作品をみる貴重な機会となりますね」と、ケンケン。
春信を育んだ時代と初期の作品
石川豊信 「初代瀬川菊之丞の傾城」延享・寛延期(1744-51)
最初に、こちらは春信が影響を受けた時代の石川豊信(1711−85)の「初代瀬川菊之丞の傾城」です。錦絵の誕生まで、紅絵と紅摺絵の時代がありましたが、これぞまさしく紅絵。黒い線の部分は版木で摺っていて、あとの色は1点ずつ手で彩色しています。「一見美人画に見えますが、これは初代の瀬川菊之丞の傾城を描いた役者絵なんですよ。筆で色を付けているので、色の濃淡があるでしょう」と、藤村さん。初代、二代目、三代目と当時人気を博した女形の瀬川菊之丞。「これは初代の瀬川菊之丞であることが着物の結綿の紋からわかります。明和の終わりごろから似顔絵で描かれますが、それまでの役者絵は顔に個性表現がありませんでした」と、藤村さん。「なるほど。この時代の役者絵は顔を似せて描かなかったんですか…。なぜですかね」と、ケンケン。「それぞれの絵師が得意にした理想形の顔があり、今のアニメも松本零士の作品の美人顔なんて、どれも同じ顔であるように、これは石川豊信風のぽっちゃりとした美人画の顔です。おそらく個性を加えながら美人に描くというのは難しいからでしょう。浮世絵師が最初にもらえる仕事は役者絵を描くことでした。春信がデビューした頃に描いた役者絵が30点ほど残っています」と、藤村さん。ただし、役者絵は当時のプロマイドのようなもので、興行がある時期だけしか販売できないため、さほどいい紙や絵具を使われておらず、錦絵の時代に入る前は3色か、多くても5色くらいしか使われていないのです。
絵暦交換会の流行と錦絵の誕生
おや?絵の横に「この絵の中には大小の月を表す文字が隠れています…」と書かれたクイズが貼られています。
「展覧会に来た方々に興味を持っていただける様ににクイズ形式にしました。会場には29個のクイズがあります」と、藤村さん。「クイズですか、面白いですね。あっ、洗濯物に大と書かれていますね」と、ケンケン。
鈴木春信「夕立」 明和2(1765)年の絵暦 署名「伯制工」 印章「松伯制印」「画工 鈴木春信、彫工 遠藤五緑、摺工 湯本幸枝」
絵暦を交換する会が大流行したのは明和2~3年ごろ。当時、大の月(30日)と小の月(29日)が毎年変わるため、暦が必要でした。その年に適した凝った図案を考えて、プロの絵師に絵暦をつくってもらい、年初に交換し合う。今でいう年賀状のようなものが、当時の俳諧グループなど教養人の間で大流行したのです。「紅摺絵の多くは安価なものだったと思いますが、こちらはいかに豪華で美しいものをつくったかが自慢になるわけです。しかも、教養人で裕福な武家や商人たちが、金に糸目をつけずつくらせました」と、藤村さん。「この「伯制工」とあるのは、考案した人の名前ですか?」と、ケンケン。「どういった人物かはわかりませんが、印を読むと「松伯制印」(しょうはくせいいん)と書いてある。松伯という俳号を持つ俳諧グループの誰かでしょう。自分がこういうものをデザインし、考案しましたという印ですね。さらに、彫り、摺りを担当した人の名前が書いてあります」と、藤村さん。「これだけセンスのいいものを俺がつくらせたということですね(笑)。でも、これが錦絵誕生の契機になったんですよね」と、高木編集長。「その通りです。浮世絵の技術の向上と、その大衆化は、間違いなく絵暦の流行の影響が大きかったんです」と、藤村さん。
鈴木春信「見立孫康」 明和2(1765)年
向って左側は絵暦です。女性が読んでいる手紙の中には「小の月」と書かれています。「絵暦は趣味で配ったもので、無料で配る分には問題ないけど、許可を受けた者以外の暦の販売は禁止されていました。そこで版元が絵暦の版木を買い取って、字を削り取って、鑑賞する作品として売ったものが右の絵です。同じ版ですが、手紙の字がなくなっているでしょう。これがまさに錦絵の誕生なんです」と、藤村さん。当時、絵暦の交換が大流行していることを当時の版元は見逃しませんでした。絵暦の版木を買い取ると、考案者の名前は削り取り、数字も模様で潰すなどして、販売したのです。
じっくり見比べてみると・・・
「右は色を濃くしていますね。それとも、絵暦が褪色しているんですか?」と、ケンケン。「最初は趣味的なもので、当時の文化人たちの価値観としてはやはり淡白なほうがよかったわけですが、一般向きに売るときに濃くしたのでしょう」と、藤村さん。すると、高木編集長が「あ、わかります、今の出版社でもよくやる。これちょっと地味すぎない? もっと派手にしようぜ、って(笑)、勝手に色を乗せたりするんです。日本の出版社独特なのか、当時の版元の傾向をわれわれは引きずっているのか…趣味としては淡いほうがいいんでしょうけど(笑)」。すると「たしかに淡い絵暦のほうが線がきれいに見えますね」と、ケンケン。
絵暦は、俳諧グループなどの文化人を対象にしたところから始まっているので、描かれたテーマは古典文学、和歌、故事をテーマにしています。「わかる人にはわかる。一種、文化人の優越感を満たすような描き方をしているため、何を描いているのか文字で表現したものはない。絵で見るしかないんです。わかった人は文化人としてのプライドを満たされる、そういった楽しみ方でした」と、藤村さん。