Culture
2020.03.24

キリスト教徒の女性が祭神?対馬に祀られる小西マリアの悲話と怨霊伝説

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日本人は森羅万象を敬う。
なぜだかわからないが、神様として敬う。
だから全国の神社には、天地開闢以来の様々な祭神が祀られている。
太古からの神様もいるかと思えば、明治神宮のように祭神が比較的新しい神社もある。
祀られている神様も広く知られるものから、そうではないものまで様々だ。

なんでも神様になる日本。

でも、この対馬にあるこの神社は予想外だ。

なにしろ、鳥居がある神社なのに、祭神はキリスト教徒なのだから……。

対馬への旅路は船酔いに注意

「これは、過酷な船旅になりそうだ……」 

乗船するなりそそくさと100円で毛布を借り、床に寝転がる作業着姿の人が大勢いた。自分もすぐに真似をする。

玄界灘に浮かぶ国境の島・対馬への旅は遠い。
大きさだけでいえば対馬は日本で10番目の巨大な島だ。淡路島より少し大きく奄美大島より少し小さい。

島の形状は南北に82キロメートル、東西に18キロメートルと細長い。かつては幾つかの自治体に分かれていたが今は島全体で「対馬市」となった。
中心となる都市・厳原(いづはら)は、島の南部にある。そこからは、北端の比田勝(ひたかつ)までバスが出ている。訪問の際に乗ってみたのだが乗客は少なく、途中で停車するバス停も少ないのに乗車時間は2時間半ほど。途中はほとんどが山道で海が見える時間も少ない。とにかくこの島は大きいのだと実感できる。
 
そんな大きな島なのに、本土から気軽に旅行できるとは言い難い。九州からはフェリーと高速船、飛行機も飛んでいるが便数は多くはない。なにしろ、一時は島の北のほうに住む人は「東京へ行くなら釜山経由のほうが便利で早い」と話していたほど(最近は日韓関係の悪化やコロナウイルスのせいで対馬〜釜山間の航路が減便になっているので、それほどでもない)。

観光案内もあるが船客はなにか仕事で乗船している風な人たちばかりだった

ぼくが、その島を訪れた理由は、ただなんとなく。西日本各地を取材した帰り道に、このまま帰るのは惜しいと考え地図を眺めているうちにいきたくなったのである。

博多港から対馬の中心地・厳原へ渡るフェリーは一日2〜3便。ぼくが乗船した時は博多港を午前10時00分に出発して、厳原港到着は14時45分。時間はともかく気になるのは揺れだ。下関と釜山を結ぶ関釜フェリーには乗ったことがあるけれど、玄界灘は日によって随分と荒れる。

対馬には魅力的な神社が多い。写真は海幸山幸伝承で知られる和多都美神社

ちょっと心配になって係の人に「今日は揺れますかねえ」と尋ねると「いや、今日は大丈夫ですよ」という。少し安心したけれども、いざ乗船してみれば、案の定。
絨毯敷きの開放的な船室で毛布をかぶってただ寝転がる。船酔いしないように、そのまま動かず4時間半あまり。船は無事に厳原港へ入港したのであった。

ほかでみたことのない祭神が

3日ばかり島の神社仏閣や史跡をめぐった。
そのひとつに厳原八幡宮という神社があった。

この神社は厳原の市街地に鎮座している。その前に回っていた神社が最寄りのバス停から徒歩30分。あるいは公共交通機関はなかった事に比べると、いささか魅力に欠けているように見えた。

別にそんなことはないほうがいいのだが、苦労して参拝したほうが御利益があると、ぼくは思っているのだ。
とはいえ、素通りするのは失礼。まずは参拝するのが礼儀である。
本殿に参拝してから、境内を歩いていると末社の一つの説明に足を止めた。案内の掲示板には、こんな一文があったのだ。

社号 今宮若宮神社
祭神 小西夫人マリア

そこは鳥居のある日本の神社。なのに、祭神の名前でわかるように祀られている神様は切支丹(キリスト教徒)。なんでも神様にしてしまう懐のふかさ。いうなれば、いい加減さは神道の特徴のひとつ。とはいえ、キリスト教を信仰している人物が祭神となっている神社は、ほかには聞いたことはない。

いったいなぜ、こんな神社が建立されるに至ったのか。そこには悲しい物語があった。

政略結婚でも育まれた夫婦の愛

この神社の祭神となっている「小西夫人マリア」とは、豊臣秀吉に仕えた小西行長(こにしゆきなが)の娘である。マリアと対馬の縁は、マリアが対馬の大名・宗義智(そうよしとし)に輿入れしたことから始まる。鎌倉時代に対馬の覇権を手にした宗氏は、元寇の際に当主・宗助国が討ち死にするも、その後も支配を保った。
戦国時代になると、九州本土への進出も図ったが実を結ぶことはなく、豊臣秀吉による九州征伐が始まると、すぐに秀吉に臣従し本領を安堵(権力者から自分の領地や地位の保証を得ること)された。

境内の前は広い駐車場。一見、ありきたりな神社にも見える

九州征伐の直後に当主となった宗義智は、全国統一を果たし明へ攻め入ることを計画していた秀吉に、侵攻ルートとなる李氏朝鮮との交渉を命じられる。結局、この交渉は決裂し天正20(1592)年に文禄の役が始まるわけだが、この時に秀吉に命じられて取次役となったのが小西行長であった。

何度か戦火を交えながらも、朝鮮半島との交易で利益を上げてきた対馬にとって、秀吉の朝鮮出兵は避けたいものであった。九州征伐中の天正15(1587)年には先代当主の宗義調(そうよししげ)が秀吉に使者を送り出兵を取りやめることを願い出ているが、逆に朝鮮国王が自ら日本へ渡り挨拶をすることを要求されてしまった。

山がちで作物の収穫も十分でなく朝鮮との交易で生きながらえている対馬にとって戦果はどうしても避けたいところ。同じく秀吉から難題を命じられた小西行長も商人出身なので、その気持ちはよくわかる。そうした経緯から、難題に対処するため両家の関係を強化するべくマリアの輿入れが決まったのであろう。

宗氏の居城・金石城周辺。なお対馬歴史民俗資料館は現在建て替えで休館中。今年、対馬博物館として開館予定

長女であるマリアは名前を妙といい、輿入れした天正18(1590)年には15歳であった。
夫の宗義智は永禄11(1568)年生まれと伝わるので20代前半である。二人の関係を伝える史料は少ないが今宮若宮神社の由来や当時の史料でも、宗義智はマリアの影響で洗礼を受けてダリオと名乗ったとされている。洗礼まで受けるほどだから、夫婦には政略結婚とは違うなにがしかの深い絆があったのだろう。
 
しかし、夫婦仲とは別に運命は過酷だった。

義父の小西行長と共にあらゆる詭弁を用いて秀吉と朝鮮との交渉を軟着陸させようと図ったものの失敗。文禄慶長の役には宗義智も小西行長と共に渡海することになったのである。
朝鮮出兵はなんら戦果を得ることなく終わったが、本当の苦難はそれからであった。関ヶ原の戦いである。
小西行長が西軍につくと、宗義智もこれに従い前哨戦の伏見城の戦いに参戦。関ヶ原の戦いには参加しなかったものの家臣を派遣している。

逆賊の娘として離縁され信仰の中で死す

知られる通り西軍は敗北し、小西行長は京都・六条河原で斬首となった。当然、宗義智も処罰されるはずなのにそうはならなかった。朝鮮と関係修復を望んだ徳川家康は、交渉役として欠かせない宗義智を罪には問わず所領を安堵したのである。

だが、所領が安堵されても問題はマリアである。いくら許されたとはいえ西軍の大名の娘を正室においていては、いつ二心があると疑われかねない。そのため慶長6(1601)年10月、マリアは離縁された。

厳原は古くは国府と呼ばた対馬の中心都市である

もはや頼るところもないマリアがたどり着いたのは、交易で栄えまだ多くの切支丹が暮らしていた長崎であった。マリアはこの地で神に祈る生活をおくり5年後の慶長10(1606)年に世を去ったという。この哀れなマリアの生涯は対馬の人々にも、伝わったのだろう。そこで人々は霊魂を慰めようと元和5(1619)年に神社を建立したのである。

実は哀れみよりも畏れのほうが強かった

現在、神社にある由緒には「霊魂を鎮めるため」と記されている。実際、対馬の人々にもマリアを哀れむ気持ちがあったのだろう。しかし、事情はそんなに単純ではなかったようだ。

一見、この物語を聞くと離縁されよるべもなくなったマリアが清い信仰に身を置いて世を去ったことを人々が哀れんで祀ったように見える。ところが江戸時代に編纂された『對州神社誌』などの史料では、怨霊を祀った神社であると記されているのだ。

境内には安徳天皇を祀る神社も。まだ広く知られない対馬の伝承は限りない

時代と共にマリアへの同情のような気持ちは強くなったようだが、もともとは祟りを畏れたというのだ。このことは、マリアが死去してから神社が建立されるまで10年以上も間が空いていることからも想像できる。
宗義智はマリアの死から9年後の慶長20(1615)年に死去している。宗義智の後を継いだのはまだ11歳の宗義成(そうよしなり。母はマリアとは別の女性)。
その頃、藩内では不穏な空気が流れ始めた。とりわけ藩の家老職で朝鮮との交渉の実務を担っていた柳川氏は、幕府直参の旗本になることを計画して宗義成と対立する。
この対立抗争は、寛永10年(1633)年に柳川家の当主・柳川調興(やながわしげおき)が対馬藩が朝鮮との交渉にあたり国書を改竄していたことを幕府に直訴する、お家騒動・柳川一件へと至る。
鎌倉時代から支配構造が変わらず、戦国時代そのままの下剋上の風潮(というよりもより中世的な弱肉強食)が強かった対馬では数十年にわたって不穏な空気が続いていた。

そうした中、父を失ったマリアを離縁し追いだしたことで、祟られているのではないか、と畏れた人々が神社を建立したのである。

逆賊の娘かつ切支丹であったマリアを祀ることは、あまり表立ってできるものではなかったようだ。
そのためか、現在に伝わっている史料は少ない。
ただ、江戸時代を通じて対馬ではなにか不幸な出来事や不穏な騒動が起こると、マリアの怨霊ではないかと畏れられた。

今はそうした畏怖も薄れ、マリアの名前に相応しい聖母のようなイメージだけが残っている。
それにしても、祟りを畏れるがために祀る、といった日本の土着的な信仰心はとても興味深い。
これからも探求の旅は続くのである。
 
<参考文献>
徳竹由明「小西マリア母子とその怨霊をめぐって ー対馬今宮若宮社の縁起説考ー」『中京国文学』33号 2014年 中京大学国文学会・鈴木棠三『対馬の神道』 1972年 三一書房
 

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。