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2020.04.27

「麒麟がくる」サイドストーリー?93歳で「関ヶ原の戦い」に参戦した大嶋雲八の豪快エピソード

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最近、寝ても覚めても、この武将のことが気になって仕方がないのです。『九十三歳の関ヶ原』(近藤龍春著/新潮社)に登場する弓大将こと大嶋光義(おおしまみつよし)、後に雲八(うんぱち)の存在を知ってからというもの、現世に生きる男たちが霞んでしまうほどなのです。こんなにも圧倒的な存在感を持ったお方、見たことありません!これが2次元の恋というもの?

弓だけで戦乱の世を駆け抜けた 大島光義という弓名人

戦国時代に槍の名手、刀の名手、そして鉄砲の名手と武勇伝を持った武将たちが、しのぎを削って戦っていた中、弓一本であの「関ヶ原の戦い」の大舞台に出陣していたというのです。それも93歳で! 年を重ねたからなのでしょうか。決して揺らぐことのない信念で、どんな修羅場においても、慌てず大局を見つめ、すべてを受け入れ、ただただ心落ち着けて矢を放つ。その凛々しい姿(見てはいませんが)にときめきさえ覚えてしまうのです。

これ作り話と思うことなかれ。なんと、このお方、実在の人物なのですよ!!!

「大嶋雲八、本名を大嶋光義。関藩主(岐阜県関市)も務めた戦国大名」。この名前を聞いても、知っている方はほとんどいないのではないしょうか。私もたまたま関市についてを調べている中で、偶然出会ってしまったと言いますか。まさに運命の出会い?

大嶋光義は、還暦を過ぎてから、織田信長にその腕を見込まれ、弓において足軽頭を命じられ、織田信長の天下布武を弓で支え、幾多の戦で功績を残しました。明智光秀の謀反による「本能寺の変」で、主君・信長を失いますが、その後は、重臣だった羽柴秀吉に召し抱えられ、70歳を過ぎてもその弓の威力衰えず……。ついには93歳で「関ヶ原の戦い」に東軍にて参戦、徳川家康からも多大な褒美と領地を与えられるのです。もう、おわかりでしょうが、大嶋光義からすれば、この三英傑はかなり年下なのです。小説の中でも、関ヶ原の戦いのため、江戸を出て美濃赤坂(現在の岐阜県赤坂町)の岡山に陣を築いた際、挨拶で訪れた大嶋光義に向って、徳川家康は

「これは何たる忠義。その歳まで戦陣に立って生き延びたられた大島(小説の中では大嶋ではなく大島と表記)殿の存在こそ、我らが武神。同陣するだけで、このたびの戦、勝利は間違いござらぬようじゃ」

と宣います。そりゃ、93歳で、出陣すると言われるだけでも驚きで、数々の激戦の中で、生き延びてきたことこそが奇跡であり、まさに武神と崇め奉りたくなります。

人生100年時代を地で生きた男! 93歳まで現役男の人生たるや!

このところの「コロナ禍」で味わう先の見えない恐怖感やいきなり老後に2000万円必要と脅され、人々を奈落の底に突き落とした「人生100年時代」宣言など、もはや路頭に迷いそうなこの時期に、93歳まで現役を貫きとおした人物がいたとは! これを光明と言わずして、何と言う! この大嶋光義の潔い人生にただただ、私、ひれ伏してしまったのです。

大嶋光義の人生は、波乱万丈、悲劇からの始まりでした。永正5(1508)年、光義が生まれた美濃国・関村(岐阜県関市)は、守護である土岐家の家督騒動に始まり、小さな国盗合戦があちこちで行われていた戦乱の地。刃物、刀剣の町である関には、たくさんの刀匠が住んでいたことからも、戦の多い場所だったことがわかります。光義の父もこの戦乱の最中に戦死し、光義は8歳で戦災孤児となるのです。孤児となった光義は多芸郡(現在の岐阜県養老郡)の親族、大杉弾正に育てられます。孤児である自分が身を立てていくには、それなりの芸がなくてはと、この時に猛特訓を重ね、射芸(弓の技)を身につけたとも言われています。

寛政年間(1789~1801年)に全国の大名や旗本から家譜を提出させそれをまとめた「寛政重修諸家譜」の中に、

13歳の時、鉄砲で光義を撃とうとした敵を弓で射倒したのが最初で、樹影に隠れた敵を射、樹を貫いて首に当たり、敵はそのすごさに感動し、その樹を矢を抜かず切り、首と共に光義の許に送った

と記載されており、この時点で、弓の名手として噂になっていたことがわかります。14歳にして初陣を果たし、関村領主長井道利に属し、武功を上げていきました。この長井道利は、斎藤家の家臣(斎藤道三の息子や義弟などの諸説もある)で、大嶋光義も斎藤家に仕えていたとされています。斎藤義龍の息子であり、当時稲葉山城主であった斎藤龍興と織田信長の戦いでは、のちの主君となる織田信長とも戦っていたのです。

ここで、みなさん、あの大河ドラマを思い浮かべませんか? そうなんです! 現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」の戦乱シーンのどこかに大嶋光義がいた可能性はかなり高いのです。さらに、明智光秀の出生地とされる明智荘(可児市)と関城(関市)は近く、同じ土岐源氏の流れを汲むと言われる明智家と大嶋家ですので、関係性があったのではと思ってしまいます。「麒麟がくる」のサイドストーリーとしても楽しめてしまうのが、大嶋光義の生涯なのです。

この大嶋光義の人生については、菩提寺である大雲寺に、大嶋光義の300回忌の法要の際に、記されたとされる文章が残っています。

この文章に出てくるのが、まさに目を疑うような名前や地名なのです。それが、冒頭にお伝えした小説にも登場する「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」三英傑に従ったというもの。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に召し抱えられた男

稲葉山城を落とした織田信長に弓の腕前を買われ、家臣となった大嶋光義は、永禄7(1564)年に足軽頭に命じられます。元亀元年(1570)年には、浅井長政、朝倉義景と戦った坂本の志賀の陣での武功をたたえられ、織田信長より「今日の働き白雲を貫くごとし、雲八と名前を改めよ」と命ぜられたのです。この時から大嶋光義は大嶋雲八と改名し、彼が建立した寺の名も「大雲寺」と名付けられたとされています。

さらに驚くのは、明智光秀が謀反を起こした「本能寺の変」の時には、安土城におり、信長没後、美濃国へと戻ったと記されています。この時すでに74歳。美濃まで落ち武者に遭うことなく、どうやって帰還したのか。
ハラハラドキドキのストーリー展開なのです! ここまで来ると「麒麟がくる」のクライマックスには、ぜひ登場していただきたいと強く願ってしまいます。

この大嶋光義がこの年においても、数々の武功を上げていたことを証明するのが、信長没後に仕えることとなる羽柴秀吉に、弓足軽大将を任ぜられ、6,000石もの領地を与えられたことです。60代で信長から与えられた領地が300貫、200石余りだったことを考えると、30 倍もの昇給アップ。管理職になるならいざ知らず、バリバリ現役の現場で、それも弓で、この昇給って! 大嶋光義の胆力の強さといったらありません。退職を勧められるどころか、「ますます頑張ってね!」と言われているも同然。この年になっても暇を持て余すどころか、己の弓の鍛錬に明け暮れていたとは! なんてストイック!! ここでさらに恋心がヒートアップしたのは言うまでもありません!

新型ウィルスのコロナの影響で、運動不足が叫ばれ、家に籠る日々が続く中、大嶋光義のこのどんな状況であろうとも鍛錬を忘れないこの姿勢こそ、今の私に求められていることだ!と思い、今日からスクワット100回を課してみます!

そして、豊臣秀吉亡き後は、徳川家康に従い、上杉景勝の征伐に出陣し、続く関ヶ原の戦いの武功により、慶長6(1601)年、1万8000石余の関城主となるのです。この時、94歳。もはや大嶋光義こそ、大河ドラマの主役でよくない? と思ってしまうほどです。大嶋光義が手にした土地は、関市はもちろん、京都や大阪にも及びました。関市の発行する広報資料によれば、京都市伏見区の「深草大島屋敷町」や大阪府豊中にある「大島町」の名は、大嶋光義の屋敷があったことに由来すると言われています。また、参勤交代用に江戸城近く、現在の霞ヶ関周辺に1700坪もの広大な土地があったことがわかっているそうです。

関市では地元の名将として愛され、人気を誇る

天下を取ったわけではありませんが、弓で人生を貫き通し、慶長9(1604)年8月23日に97歳でこの世を去り、大雲寺に葬られました。

現在、大嶋雲八(光義)の菩提寺となる大雲寺では、命日に「大嶋雲八供養祭」として、大嶋家ゆかりの人を招き、イベントが開催されているそうです。

さらに、2次元好きの方にぴったりの素敵なアプリを関市が開発。大嶋家の家紋の揚羽をモチーフに、「KUMOAGEHA」と名付けられたアプリをダウンロードすれば、幻の名刀「雲揚羽」を探しながら、関市の主要観光スポットを訪ねられるという斬新な試みも展開されています。

いよいよ大河ドラマ「麒麟がくる」の美濃編もクライマックス。サイドストーリーとして、小説『九十三歳の関ヶ原』もぜひ手に取っていただき、様々な空想を広げてもらえたらと思います。だから、歴女はやめられない!たとえ、にわかであっても!大嶋家に伝わる本物の甲冑をガラス越しではなく、対面してしまった私が萌えまくったのは言うまでもありません!!

妙興山 大雲寺
住所:岐阜県関市伊勢町45

関市役所 KUMOAGEHA