モジャコ、ワカシ、イナダ、ワラサ……これ全部「ブリ」の別名です。ハマチやメジロなど、地域によってさらに違う名前で呼ばれることも。
ブリのように成長途中で名前が変わる魚のことを「出世魚」といいます。
戦国武将が元服(げんぷく/成人すること)や出世の際に名前を変えたことにあやかって、江戸っ子たちも縁起を担いで食べたのだそう。
実は出世するときに名前を変えたのは、戦国武将だけではありません。江戸城の大奥につとめていた女中たちも、役職が変わるときに名前を変えることがありました。
あの徳川家康も、名前を変えて出世した
江戸幕府の初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の幼名は竹千代(たけちよ)。
岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として天文11(1542)年に三河(現在の愛知県東部)で生まれ、幼少期に人質として駿河(現在の静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)のもとへ送られました。
14歳で元服すると、今川義元から一字をもらって松平元信(もとのぶ)と名乗り、初陣を飾った17歳頃に元康(もとやす)と名前を変えています。
永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長(おだのぶなが)に敗れて亡くなったのち、永禄6(1563)年に家康と改名。
同じ年に、家康の息子の信康(のぶやす)と織田信長の娘が婚約を結び、家康は今川義元からもらった元の字を名前から捨てて、今川氏との決別を表明しました。
徳川と姓を改めたのは、今川の勢力下だった東三河を制圧し、三河国を統一した永禄9(1566)年、家康が25歳のときです。
名前の変遷から、そのときに置かれていた境遇も知ることができて、おもしろいですよね。
大奥の女中も、出世すると名前を変えた
江戸時代に将軍の妻子が暮らしていた大奥では、たくさんの女中たちが住み込みで働いていました。
おの字名からスタート
将軍や御台所(みだいどころ/将軍の正室)に目通りができる「御目見(おめみ)え以上」の大奥女中になれるのは、公家か旗本の娘たち(旗本の養女となった御家人の娘も含む)です。
旗本の娘たちはお梅やお夏のような、あたまに「お」をつけて呼ばれる「おの字名」をもらい、最初は御目見え以下の掃除担当「御三之間(おさんのま)」から女中奉公をスタートすることが多かったそう。
その後、裁縫を担う「呉服之間(ごふくのま)」や文書作成などを担当する「御祐筆(ごゆうひつ)」などの御目見え以上の役職へと出世していくタイミングで、お加知からお梶のように、おの字名が変わることもありました。
役人になると苗字で呼ばれた
大奥女中の出世コースを双六に見立てた『奥奉公出世双六』によると、ゴールは大奥の指揮監督者である御年寄(おとしより)か、将軍の子どもを産んだ側室か。
表の老中に匹敵する権力を持っていたといわれる御年寄は、江島(えじま)、野村(のむら)、滝山(たきやま)などの苗字を名乗っています。本名とは関係なく、山、川、浦、島などの文字がつく苗字を名乗るのが決まりだったのだそう。
御年寄以外にも、御客応答(おきゃくあしらい)、御錠口(おじょうぐち)、表使(おもてづかい)などが苗字で呼ばれていて、侍女系はおの字名、役人系は苗字とわかれていたようです。
ちなみに大奥には公家出身の上臈(じょうろう)御年寄もいて、飛鳥井(あすかい)や姉小路(あねがこうじ)などの公家の苗字を名乗っていましたが、これも本名ではなかったそうです。
また、大奥では商家や農家出身の女性たちも御目見え以下の雑用係として働いていましたが、彼女たちは源氏物語からとった「桐壺(きりつぼ)」などの源氏名で呼ばれていたのだとか。おの字名より、なんだかよっぽど身分が高そうですが……。
御年寄と側室はどっちが上?
大奥は、将軍家の後継ぎを絶やさないために女性たちが集められた場所でもあります。将軍の寵愛を受けた女性たちが競い合い、幅を利かせていたようなイメージがありますが、実際のところはどうだったのでしょう。
なかなか厳しい側室事情
実は大奥では、将軍といえども気に入った女性を好き勝手に寝室に呼べるわけではありません。夜のお相手は、基本的に着替えなどの身の回りの世話を担当している、将軍付きの御中臈(おちゅうろう)から選ぶと決まっていました。
そこで御年寄たちは親戚の娘などを大奥に呼び入れて、それぞれに息のかかった女性を将軍付きの御中臈として送り込んでいたのです。つまりこの時点では、御中臈は御年寄の手駒にすぎません。
江戸時代中期に寛政の改革を行って、大奥の予算を厳しく削減した老中の松平定信(まつだいらさだのぶ)は、これを問題視して「御年寄の近親者には将軍の相手をさせるな。もしもお手がついて男子を生んだら、御年寄を引退させよ」と指示しています。
しかも将軍のお手がついただけでは、御中臈が特別扱いされることはありません。将軍の子どもを産んではじめて側室の扱いとなり、子どもが女児なら「御腹様(おはらさま)」、男児なら「御部屋様(おへやさま)」。あるいは「お玉の方」や「お楽の方」などのように、おの字名に「~の方」をつけて呼ばれていたようです。
将軍の生母になれば大逆転
しかし男児を生んだ側室には、次の将軍の生母になるチャンスがありました。多くの場合、側室として仕えていた先代(または先々代)の将軍の菩提を弔うために、出家して名前は院号に変わっています。
5代将軍・綱吉(つなよし)の生母「桂昌院(けいしょういん)」や、7代将軍・家継(いえつぐ)の生母「月光院(げっこういん)」は、仏門に入ってからも将軍の生母として政治に影響を及ぼしたことで有名。大奥を舞台にしたドラマなどでも、よく耳にする名前です。
豪華な衣装に身を包み、念入りに化粧をして、仮の名前で大奥につとめていた女性たち。
その素顔は見えにくくても、名前が大奥で通った道や、手にした地位など、人生の一端を教えてくれます。
アイキャッチ:『千代田之大奥 御花見』著者:楊洲周延 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考書籍:
『徳川「大奥」事典』(東京堂出版)
『定本 江戸城大奥』(新人物往来社)
『御殿女中』三田村鳶魚(青蛙房)
『論集 大奥人物研究』(東京堂出版)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)
『大奥101の謎』淡野史良(河出書房新社)