江戸時代を生きた武士たちの姿を描く作品ジャンル「時代劇」。時代劇にはお馴染みの名場面がいくつもありますが、その中でも特に印象的なのは「切腹」のシーンではないでしょうか。武士が自らの罪を、文字通り「腹を切る」ことで償う光景は、見る者に感動を与えてきました。このような時代劇の影響もあって、江戸時代の刑罰といえば「とにかく死刑!」というイメージをお持ちの方も多いかもしれません。
しかし、当たり前と言えば当たり前ですが、江戸時代だからといって誰でも彼でも死刑になっていたわけではありません。実際、江戸時代の刑罰を見てみると、大小さまざまな罰があったことに気づかされます。その中で、私は「蟄居(ちっきょ)」と「閉門」という刑罰に注目しました。2つの罰を組み合わせ「蟄居閉門」という形で今でもたまに四字熟語として使われるので見たことはあるかもしれませんが、処罰の内容はなんと「外に出てはいけない」というだけ。一見すると、あまり辛そうではありません。
とはいえ、刑罰になっているくらいですから、武士たちにとってはしっかりと辛いものだったのです。今回は、江戸時代の「引きこもり罰」ともいえる「蟄居」と「閉門」について詳しく見たのち、いったいこの刑罰の何が辛かったのかを考えていきたいと思います。
終わりが定められていた「閉門」
まず、蟄居に比べると比較的軽い罰とされた「閉門」から見ていきましょう。閉門は、文字通り屋敷の門を竹の竿で固定してしまい、窓もふさいで人の出入りを禁じてしまう刑罰です。江戸時代は身分によって適用される罰が異なったのですが、閉門は武士や僧侶といった身分の高い人たちに適用されるものと定められていました。もちろん外出することは原則として不可能で、基本的に召使いなども屋敷には入れません。対象者は屋敷の中で静かな謹慎を余儀なくされたのです。加えて、常に見張りに外出していないかどうかを監視される立場にも置かれました。
なるほど、これは確かにストレスになりそう。当時は今と違って「自室でできること」には限りがありましたから、ヒマをつぶすのも一苦労でしょう。加えて、詩を詠もうにも、書をしたためようにも、見せる相手もいないというのはやりがいがないものです。この時点で、ある程度刑罰としては意味があるように感じます。
ただし、閉門は期間制の刑罰だったので、終わりが見えていたのは救いです。原則として期間は50日ないしは100日と定められており、それを過ぎれば処分自体は解かれるというものでした。加えて、万が一体調を崩した際に医者を呼ぶことや、火災の場合に消火活動へ協力することも認められており、また屋敷が崩れそうなときは届け出をすれば立ち退くことも許されていました。
私たちからすれば「いや、どれも当たり前すぎない?」と思いたくなりますが、当時の感覚的にはこの辺りが罪人に対するギリギリの妥協ラインだったのでしょう。そう考えると、基本的人権が保障されている現代はなんと素晴らしいか……。
ちなみに、江戸時代で蟄居や閉門のように自由を奪う刑は「自由刑」と呼ばれ、今回紹介する2つ以外にも軽いものはたくさんありました。例えば、基本は閉門と同じだが夜間外出が許される「逼塞」や、客人にあってもよい「遠慮」など。私たちが思っているよりも、江戸時代の刑罰は細かかったことがよく分かります。
場合によっては終身刑と変わらなかった「蟄居」
上記の閉門よりもさらに重く、自由刑の王様とも呼べるのが「蟄居」です。閉門と同じく外出を禁じられるのは変わりませんが、大きな違いは「屋敷の一室から外に出られない」ことだとされます。部屋から出られないので風呂にも入れませんし、マゲ結いやヒゲ剃りすらもできなかったと考えられています。食事は家族が部屋まで運んでくるので食べることはできたのと、トイレには行けたのが救いでしょうか。
文字にするだけで相当な罪だというのは伝わったと思いますが、重い処罰なだけあって対象者はかなり限られていました。罪の内容としては主に政治的なものに適用され、それまでは輝かしいエリート街道を歩んでいたという場合も珍しくありません。誰もが知っている偉人も蟄居を経験しており、分かりやすいところでは田沼意次・吉田松陰・徳川慶喜(慶喜は自主的に蟄居した)あたりがよく知られています。
しかし、一口に蟄居と言っても大きく分けて3種類の罪に分けられていたようです。それぞれを「蟄居」「蟄居隠居」「永蟄居」といい、通常の蟄居であれば短期間の処分で済む場合もありました。問題は「蟄居隠居」と「永蟄居」の場合です。
蟄居隠居とは、武士としての家督を譲り渡し、文字通り隠居の身になることです。『水戸黄門』でいえば黄門様のポジションになることで、今風に言えば「定年退職」といったところでしょうか。しかし、蟄居隠居の恐ろしいところは年齢関係なく処分の対象になるうえ、当然ながら隠居中も蟄居を強いられること。まだ20代の若くてハツラツとした青年武士が蟄居隠居に追い込まれるという例もあり、そうなってしまうと実質的に彼の政治生命は終了してしまったも同然。残りの余生を、何の希望も見いだせないまま寂しく過ごさなければならなくなります。
その蟄居隠居よりもさらに厳しい処分が永蟄居で、これは読んで字のごとく、一生ずっと蟄居の状態で生きていかなければならないことを意味します。また、押し込まれる部屋には格子がはめられるので、もはや現代の終身刑と大差ありません。もちろんこの厳しさにも理由があり、永蟄居まで行く場合は相当に重い罪を犯しているから。実際、永蟄居の次に重い処分は改易(武士の身分を剥奪されること)で、その上が切腹となります。
とにかく「メンツ」がつぶれるのが辛かった
今回取り上げた「蟄居」と「閉門」の辛さは、皆さんにもよく分かっていただけたのではないでしょうか。一見すると単なる引きこもりの罰に見えても、中身は生活がガッシリと拘束される代物だったのです。
ところが、江戸時代の武士たちにとってこの罰で一番つらかったポイントは、自由やキャリアを奪われることではなかったと思います。蟄居閉門は、武士たちが最も大切にしていた「メンツ」をまる潰しにしてしまう罰だったのです。太平の世になった江戸では、武士たちが重視したものは「強さ」ではなく「メンツ」に変わっていました。とにかく武士らしい振る舞いをすることが重視され、時には命を捨ててでもメンツを守ろうとしました。つまり、彼らにとって「メンツは命に等しい」という状況が生まれていた可能性が高いのです。
当時はご近所さん同士が今よりもずっと連帯していたので、誰かが蟄居閉門の処分を下されたという話は瞬く間に共有されていったことでしょう。言うまでもないことですが、「アイツ、悪いことして罰されたんだってよ」と言いふらされることは、この上なく恥ずかしいもの。つまりメンツが潰されてしまうに等しかったのです。彼らにとってこれは致命的な問題でした。
とはいえ、現代を生きる私たちからすると「メンツってそんなに大事? ただカッコつけてるだけじゃない?」と言いたくなります。実際そういう側面がないわけではありませんが、彼らにとってのメンツは自分のカッコつけだけにとどまらない実利的な意味もあったのです。彼らの世界は「家」という単位で動いており、自分のメンツがつぶされれば家族みんなのメンツがつぶされるに等しいものでした。さらに、時にそれは親族のメンツをつぶし、大名家のメンツをつぶすことにもつながっていきます。つまり、自分の罪で迷惑をかけてしまう相手がとにかく多かったのです。
加えて、ひとたびメンツをつぶせば、将来的には職や身分すらも失う可能性がありました。蟄居処分を受けた血縁者がいる場合、「そういう家の生まれ」と見られて家中で冷遇されてしまうリスクがあったからです。
以上の点を整理していくと、蟄居閉門の罪が彼らに与えるダメージの大きさがよく理解できたのではないでしょうか。現在は私たちも緊急事態宣言の延長によって「セルフ閉門」を強いられているわけですが、幸い自宅にいてもメンツがつぶれる心配はありません。「蟄居閉門の処分がこたえる時代じゃなくてよかったなあ」と思いつつ、ステイホームの期間を耐えしのぎましょう。