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2020.05.11

広間で大名を集めて夫選び!徳川家康の美しい養女「小松姫」の豪胆エピソード

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戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将、本多忠勝(ほんだ ただかつ)には、小松姫という娘がいました。聡明で容姿端麗だった小松姫は徳川家康の養女となり、真田信之(さなだ のぶゆき)と結婚。夫信之が、安心して城の留守を頼めるほどの女傑だったと伝えられています。

そんな彼女の、武家の女性らしい豪胆なエピソードをご紹介しましょう。

※信之は関ヶ原合戦までは信幸という名でしたが、本記事は信之で表記を統一しています。

広間で大名を集めて夫選び!

徳川家康は、養女となった小松姫に夫を選ばせようと、大広間に独身の大名を集めました。全員頭(かしら)を畳に着けてひれ伏しています。小松姫はその髻(もとどり)を掴み、一人ひとりの顔を見てまわりました。これは大名たちにとってかなり侮辱的な行いですが、家康の養女を前に誰も文句を言えません。しかし、この行いに対し「この無礼な女め!」と怒鳴り鉄の扇で小松姫の顔を打った男がいました。彼こそが真田信之です。

小松姫はこの気骨に感心し「私の夫となるのは真田の他にいない」と言い、結婚したのだとか――。

このエピソードは伝説として語られているもので、真偽のほどは定かではありません。そもそも真田信之はこの時、すでに正室がいたのですから。しかし、家康の養女に反発するような「気概のある男」を選んだというのは、真実なのではないでしょうか。

筆者の私がそう考えるのには理由があります。以前初めて行った美容院で、初対面の美容師さんに「某美人女優さんに似てると言われたことがある」という話をしました(もちろん笑い話として)。すると担当の美容師さんはゲラゲラ笑いだし「絶対ありえないですね」と言ったのです。

私は接客業の方がこんなに正直に言ってくれたことに大変驚き、そして嬉しく、その日から長いお付き合いをさせていただいています。小松姫とは全然状況が違いますが、忖度せずに正直な気持ちで接してくれる人こそ私は信頼がおけると思うのです。何の参考にもならない余談を挟んで申し訳ありませんでした。

正室をひきずり降ろして結婚

前述したように真田信之には、清音院殿(せいいんいんでん)という正室がいました。しかし、徳川家康の養女である小松姫が嫁いだことによって、側室に格下げされてしまいます。

信之の父、真田昌幸(さなだ まさゆき)は、そもそも家康が嫌いだったため小松姫のことも良く思っていませんでした。しかし2人の結婚後には「信之の嫁にはもったいない」と言うほど小松姫を気に入っており、それにつれて清音院殿の存在はますます目立たないものとなってしまいます。

小松姫と信之 Wikimedia Commonsより

しかし、これは当時の家康の権力を考えると致し方ないことでしょう。また、小松姫は自ら倹約に努め、夫やその家族を支えた献身的な女性として知られています。

例え舅でも敵の入城は断固拒否!

1600(慶長5)年、徳川家康は上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を討つべく出陣。真田昌幸・信之親子も家康に従軍しましたが、父・昌幸は途中で離反し石田三成方につきました。

その際、昌幸は嫁である小松姫が守る沼田城に別れを告げに行きました。しかし小松姫は「夫より預かった城に、たとえ父上といえど、みだりに入れることはできませぬ」と言い、自ら刀を携え防戦体制を整えたのです。これを見た昌幸は「真田の嫁として恥ずかしくない女だ」と感心するとともに、自分の行いを恥じたと伝えられています。

小松姫が住んだ沼田城絵図
〔日本古城絵図〕 東山道之部(4). 159 上州利根郡沼田城 国立国会図書館デジタルコレクションより

夫婦仲の良かった信之と小松姫

真田信之は体が弱く、たびたび病気にかかっていたと言われています。それでも当時としては大変珍しい93才という長寿を全うし、従四位下に叙せられるなどの功績をあげたのは、彼一人の力ではないでしょう。

小松姫が先だった際は「我が家から光が消えた」とたいそう嘆き悲しんだそうです。

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書いた人

大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。