デパ地下でよく見る「松花堂弁当」。お重の中に四角い仕切りがあり、煮物や焼き物など、懐石料理=日本料理のコースがひとつの箱に収められているお弁当のことです。江戸時代のお坊さんの名前が由来のこのお弁当、実はある料亭の創始者が始めたものだってご存じですか?考案したのは「𠮷兆」の創始者・湯木貞一さん。「世界之名物 日本料理」という言葉を残し、茶の湯や歌舞伎に通じ、広く財界人と交流。料理界初の文化功労者となった方です。「𠮷兆」は創業90年、時の天皇もお召し上がりになったという名門料亭。松花堂弁当のみならず、現在の日本料理に多大な影響を与えました。
今回はなんと、秘書を務めていらした歌舞伎座「𠮷兆」の方に直接お話を伺えることに!湯木貞一の生涯には、古き良き日本の美しさがたっぷりと詰まっていました。
神戸の坊ちゃんと、調理場の丁稚だった少年時代
湯木貞一は明治34(1901)年生まれ。神戸の料亭「中現長」の長男として産まれました。大店の跡継ぎとして育てられ、「貞坊」(ていぼん)と呼ばれて愛されていたそうです。当時の神戸はハイカラな港町。おやつに創業した間もないユーハイムのアップルパイを紅茶とともにいただくような生活だったのだとか!当時高級品だった舶来品のカメラを持って須磨の写真を撮りに行くのが趣味でもあり、西洋の香りを感じながら育ちました。湯木貞一の類まれなセンスはこの環境が影響していた言えましょう。
小学校を卒業するとすぐに料理人としての修行を開始。当人は中学校に行きたかったようですが、その願いは結局叶いませんでした。調理場で煮炊きを手伝ったり、野菜を洗ったり、厳しい修業が続きます。父は跡取りを育てるべく、超一流の料理人を本場・京都や大阪から招いたそうです。人力車が迎えに来て、漆塗りの立派な包丁箪笥を差し出されるといった、下にも置かぬもてなしぶりだったのだとか!
結果として家を継ぐ道にはなりませんでしたが、料理人・湯木貞一の基礎はここで育まれていきました。
𠮷兆の方向性を決定づけた松平不昧公『茶会記』
金融や証券の仕事に憧れていたとい湯木少年。初めは料理人の仕事にあまり集中できなかったようです。転機となったのは大正15(1925)年、湯木貞一25歳。茶人としても高名だった松平不昧公の『茶会記』がきっかけでした。
松平不昧公は松江藩(今の島根県)の藩主。茶の湯に精通し、その美意識は今もなお高い評価を受けています。茶会記とは、懐石料理の献立や茶室のしつらえ、濃茶や薄茶の内容が書かれた、文字通り、茶会の記録のことです。ただ筆で書かれた文字の羅列が、その後の湯木貞一の人生を大きく変えていくこととなりました。
『茶会記』を読んで茶の湯の心を学び、季節あってこその日本料理だと気づいた瞬間、目からウロコが落ちた心持だったそうです。
いよいよ開店!大阪の新町で始まった𠮷兆の歴史と困難
湯木貞一が自分の店を開いたのは昭和5(1930)年、30歳のこと。大阪の新町という、芸者衆のいる華やかな花街でした。当時の大阪の中心地には大きなお茶屋さんがあちこちに立ち並んでいたそうですよ。当時の男性にとって、お茶屋に行くということは今よりもずっと身近でした。湯木貞一が構えたのはウナギの寝床のような、カウンターのお店。萌黄色の座布団を敷き、入り口にはへっつい(かまど)でお湯を沸かしておき、のれんをかけるという、洗練されたセンスが惜しみなく発揮されていました。斬新だったのは、表に黒板を出していたこと。今でこそ売りのメニューや入荷した刺身の内容などを黒板に書くことは当たり前となりましたが、当時の日本料理店では考えられないことでした。
初めての自分の店を開いた湯木貞一でしたが、すぐさま軌道に乗ったというわけではありません。花街は一見さん、つまりはよそ者には厳しい世界。毎日閑古鳥が鳴き、かなり追い詰められたそうです。
開店の挨拶として、『助六』を思い出させる朱塗りのキセルを3本配り歩いても、「そこに置いとき」とけんもほろろ。店の場所すらも訪ねてもらえなかったそうです。
開店当時の名前は「御鯛茶処 𠮷兆」。「𠮷兆」は町絵師であった須磨対水先生という方が大阪にちなんだ名をと付けてくれたそうです。『えべっさん』(商売繁昌を願う人たちでにぎわう今宮神社)の𠮷兆笹にちなんでいます。「吉」の字は実は下の方が長い、つちよしと呼ばれる字。常用漢字だと上の字は「士」、つまりサムライになってしまい、「武士は食わねど高楊枝じゃなくて、料理屋は食べてもらわないと」と、こちらの字になっているのだそうです。
鯛茶とは鯛茶漬けのこと。こちらも須磨先生考案で、何か名物があったほうが良いとのアイデアからでした。今で言う飲み会後のラーメンのように、花街で遊んで小腹がすいた旦那衆が寄るようになり、「ええ店やなあ」と徐々にひいきにしてくれる……と徐々にその名は知られるようになりました。当時の旦那衆と言えば、まさに粋人。開店当時からこだわりぬいていた器、店構え含め、その洒脱さは「御鯛茶処 𠮷兆」を名店に成長させていきました。
茶の湯で人生が変わった湯木貞一、宝塚歌劇創始者など、幅広い財界人との交流
昭和12年に店を移転。夫婦で切り盛りしていた新町の店とは違い、料理人も雇う大所帯でのスタートでした。その後、日本は戦争へと入っていきますが、「𠮷兆」はお上の認めた特例として戦時下もなんとか営業を続行。戦争が終わると、平野町に店を出します。ここは現在、湯木美術館が開館している場所です。さらには東京に進出。自分の子にのれん分けをしていき、「𠮷兆」は益々成長していきます。
成長の裏には奥様の献身が絶えずありました。帳場をずっと担当していた奥様はまさに内助の功。美術館になるほどのコレクションをそろえることができたのも、ひとえに財布を預かる奥様の存在あってこそでした。
実は「世界之名物 日本料理」という言葉を広めたのは奥様が急死されてから。三日三晩泣き暮れたのち、このままでは妻に申し訳が立たないと奮起したことがその後の生き方を決定づけたのです。すぐにマッチに印刷して配ったと言いますから、その行動力の凄さが推し量れます。
湯木貞一は生涯茶の湯を愛し、茶と親しんだ料理を作り続けました。当時は茶の湯を修めた財界人が多く、茶の湯を通じて出会った人々と様々な交流があったそうです。
例えば、日商岩井の創業者・高畑誠一氏。商社と言えば、まだ見ぬ食材をいち早く日本に伝えていた存在です。まだ全く輸入されていなかったスモークサーモンやゼリー、キャビアなど、世界の食材に触れ、料理に取り入れていきました。今の我々からはなじみある食材ですが、当時の方々の驚きはいかばかりだったでしょうか。
アサヒビールの山本為三郎氏、阪急グループ、宝塚歌劇団の創始者としても名高い小林一三氏、関西財界のそうそうたる面々との交流で、「𠮷兆」は一流の料亭として磨き上げられていったのです。
明治から平成まで。4つの時代を生き抜いた湯木貞一
湯木貞一は、1997年、95歳でその生涯を閉じるまで、一生を日本料理に費やしました。それはただ自分の店を発展させるためだけではなかったと思います。「𠮷兆」は一度、料理を器と共に写真で紹介する、当時の金額で8万円もする本を出版したそうです。初版は1000冊、「刷りすぎでは」と言う出版社の心配は杞憂に終わり、あっという間に完売。すぐに増刷とありました。それまでベールに包まれていた、きらびやかな吉兆の料理や湯木貞一の目利きに叶った器を惜しみなく公開。みな驚いて買ったそうですよ。その背景には日本料理そのものを育てようと日本料理界を牽引してきた、湯木貞一の姿が感じられます。
その精神と美意識は今も、「𠮷兆」が日々作る四季を感じる料理に受け継がれています。