出オチのような冒頭の画像である。
まさしく、二人の武将が、ちょうど首実検を行っているところ。首実検とは、討ち取った敵の首を持ち帰って、首が誰であるかを大将が検分する儀式である。
注目して頂きたいのは、右の男。
少し体を遠ざけて。扇子を盾のようにしながら、その首を見ている様子。この首を確認している男が、江戸幕府を築いた権現様こと「徳川家康」である。2回にわたる「大坂の陣」で、豊臣氏を滅亡させた人物だ。
そして、絵の中央下の方に少し目線を落として頂こう。
少し青ざめながら首だけとなっているこのお方。
名は「木村重成(きむらしげなり)」。
慶長20(1615)年、「大坂夏の陣」で討ち死にした、豊臣方の戦国武将である。
天下人となった徳川家康が「稀代の勇士」と感心して惜しんだ彼こそが、今回の主役。
戦国きってのイケメン武将と名高いが、それとは別に「武士」としての最期を徹底的に貫いた男としても有名だ。今回は、そんな木村重成の覚悟ある生き様をご紹介しよう。
徳川家康に血判を押し直させたってホント?
なんせ、イケメンだからなのか。
ありえないような逸話が、本物のように語り継がれている。
この手の命題には私も結論が出ない。イケメンだからそのような逸話が生まれるのか。それとも、逸話があってそれに惑わされてイケメンと錯覚するのか。いや、イケメンと錯覚するって。さすがにそれはないか。ないない。
さて、木村重成の出自だが、はっきりとしていない。
一説には、豊臣秀吉の重臣であった「木村重玆(しげこれ)」の子だとも。木村重玆は、秀吉の甥である「豊臣秀次(ひでつぐ)」の家老として、次期政権の中枢にいた人物。しかし、秀次に謀反の疑いがかけられた「秀次事件」で、連座して切腹を命じられたのであった。
当時、木村重玆には子がいたのだが。長男は共に連座で切腹、次男は3歳と幼かったために切腹を免れた。その次男こそが、木村重成だというのである。ちなみに、重玆の妻、重成からすれば母親になるのだが、彼女も助命されたという。
その母親が、のちに、秀吉の子である「秀頼(ひでより)」の乳母となる。この前提が事実ならば、木村重成と豊臣秀頼は、同じ乳で育った「乳兄弟」の間柄となることに。なお、助命された重成は秀頼の小姓として付き従い、共に成長する。
重成を実際に見た人物の回顧録では、背が高く、気品のある若武者だったとか。とにかく「美丈夫」であることに間違いはないようだ。容姿が目立つうえ、立ち居振る舞いも堂々としていたという。
だからなのか。
木村重成が、あの徳川家康をやり込めたという逸話が残っている。
ちょうど、徳川方と豊臣方が真正面から衝突した慶長19(1614)年の「大坂冬の陣」。家康は、力攻めから作戦を変更。豊臣方との和睦を選択する。
その際に、豊臣秀頼の正使として徳川方に出向いたのが、木村重成。徳川方との和睦の調印に際して、あの神君「徳川家康」に対して、物怖じせずに申し立てしたというのである。
その内容がコチラ。『慶長見聞書』より一部を抜粋しよう。
「家康公御前に召出され、長門守(木村重成)に御起請御渡し成られ候ところ、頂戴仕候て、拝見致し申上候は、『御血判、少しく薄く御座候』」
なんと、家康に、血判が薄いと指摘をし、再度の血判を求めたというのである。
ただ、真相はというと。
この逸話は、後世での創作といわれている。というのも、実際に誓書を受け取ったのは、2代将軍秀忠(ひでただ)からである。つまり、家康との接触はなく、指摘するチャンスなどなかったというワケである。
それでも、居合わせた徳川諸将らからは、感嘆の声が。その堂々とした木村重成の様子に驚いたというのである。
そんな感想が伝聞となって、後世で少しずつ微妙に変化した。そんなオチなのかもしれない。
大坂夏の陣で散るあっぱれな最期!
大坂冬の陣の講和では正使を務めるなど、大役を仰せつかった木村重成だが。じつは、この戦いが、彼の初陣だったという。
そもそも、豊臣恩顧の大名らが徳川家康に臣従したため、豊臣方の人材は枯渇。木村重成とて、若干22歳の若武者である。京都二条城で徳川家康との会見の際に、豊臣秀頼の傍に付き従っていたのも、これまでの武功が評価されてというワケではない。幼少の頃からの2人の関係性を考えれば、秀頼にとって数少ない信頼の置ける家臣だったゆえのこと。
ただ、戦績がなかっただけで、刀や槍、騎馬の術に長け、非常に優れた武将だったようだ。そんな重成の初陣となった「大坂冬の陣」では、「今福の戦い」で後藤基次(もとつぐ)と共に、「上杉景勝(かげかつ)」・「佐竹義宣(さたけよしのぶ)」の連合軍と戦った。敵方の武将を討ち取る活躍もみせ、秀頼も大いに賞賛した。
そんな将来有望な木村重成だったが。
彼も、残念ながら時の流れには勝てなかったようだ。圧倒的な徳川方の策略と兵力差で、豊臣方の多くの戦国武将らと命運尽きることに。「大坂冬の陣」の講和後半年も経たずして。再度、豊臣方と徳川方が衝突した慶長20(1615)年の「大坂夏の陣」。この戦いで、木村重成は華々しく散ることになる。
「大坂夏の陣」といっても、実際は大坂の各地で戦いが繰り広げられている。木村重成の最後の戦いは、激戦となったあの「八尾・若江の戦い」である。
同年5月6日。
木村重成隊は、未明より大坂城を出発。ちょうど大坂城から東南8㎞ほどの地点の「八尾」を目指したが、沼地に阻まれたため、その北の「若江」で徳川方の河内方面隊を迎え撃つことに。なお、八尾には、豊臣方の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が迎撃の準備をしていた。
一方、徳川方の河内方面隊はというと、藤堂高虎(とうどうたかとら)、井伊直孝(いいなおたか)が先鋒であった。戦いは午前4時頃から始まったとされている。当初は、八尾で長宗我部隊が藤堂高虎隊を圧倒、若江でも木村重成隊が激しい銃撃で藤堂右翼隊を迎え撃ち、藤堂隊は兵の半数を失って敗走している。
じつは、この時点で、木村重成は、家臣から一度引き揚げることを提案されている。提案したのは、弓隊の飯島三郎右衛門。なんせ、午前2時から出発して、激戦を制しているのだ。木村隊の疲労は色濃く、予想を遥かに超えたダメージありと判断したようだ。
しかし、木村重成は、これを突っぱねる。
彼が狙っていたのは、徳川家康、そして2代将軍秀忠のツートップ。だからこそ、この程度では満足などできなかった。
一方。徳川方は、午前7時頃に、井伊直孝隊が、藤堂高虎の右翼隊の敗走を知る。これに代わって、今度は井伊隊が木村重成の隊と激突。徳川方との兵力差は一目瞭然。木村隊は、当初の勢いを既に欠いており、徐々に押され始める形に。
こうして、大混戦の末。
最終的に、木村重成は、井伊隊の安藤重勝(あんどうしげかつ)に討ち取られる(諸説あり)。無念にも、18歳の若武者によって、重成の生涯は閉じるのであった。
さて、これで、ようやく冒頭に戻れるワケである。
討ち取られた木村重成の首を、検分する徳川家康。
再度、家康をじっくり眺めると。
家康は、扇を盾にするのではなく、あおいでいるようにも見える。
じつは、この首実検の際に、家康はあるコトに気付く。
それが、「匂い」である。
なんと、木村重成の髪には香がたかれており、血なまぐさい匂いなどはしなかったのだ。今まで幾多の首実検を行ってきた家康だったが、さすがにこれには驚いたのだろう。
『難波戦記』には、こんな家康の言葉が記されている。
「若輩なりける木村がかくの如きの行跡、稀代の勇士なるを、不憫なる次第かな」
江戸幕府の礎を築いた、あの徳川家康までもが死を惜しんだ武将。
木村重成、享年23。
生きていれば、どれほどの武将になるのやら。そんな姿を見る事もできず。あまりにも短い生涯であった。
最後に。
木村重成は、戦う前から自分の死を覚悟していた。それは確かである。
その証拠は、髪にたきこめた「香」だけではない。「大坂夏の陣」の出陣前には、食べ物も自制していたという。討ち取られた際に、胃や腹から食べ物が出ないようにとの気遣いであった。なんだか、討ち取られることが分かっていたかのような準備である。
いや、違うのか。
これほど、用意周到なのだから。きっと、そのスタンスは最後だけではないだろう。ただの帳尻合わせで、その場しのぎに行ったわけではない。きっと、普段からそんな考え方をもって生活をしていたに違いない。
命尽きる最期まで「武士」でいたい。そんな強すぎる思いが、彼の最期を彩った。
木村重成という男。
彼の生き方そのものが「武士」であった。
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参考文献
『豊臣秀次』 藤田恒春著 吉川弘文館 2015年3月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼』歴史読本編集部編 株式会社角川2015年8月
『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年2月
時空旅人『大坂冬の陣 夏の陣400年』 栗原紀行編 株式会社三栄書房 2015年1月