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Culture
2019.12.09

戦国時代の家臣はどのように評価された?首実験の作法や「ズル」も紹介

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うら若き17歳の娘、あおむ。一般的には、青春真っただ中というところか。だいたい乙女が集まれば相場は決まっている。今ならインスタ映えなどのSNSで盛り上がり、一昔前はたぶん「コイバナ」で盛り上がったはず。そして、戦国時代の少女「おあむ」はというと、徹夜で「首化粧(くびげしょう)」を施していた。味方が討ち取ってきた敵将の首を洗い、必要であれば化粧をして、名札をつける。もちろん、盛り上がらなかったのは言うまでもない。

みかたへ、とった首を、天守へあつめられて、札をつけて覚えおき、さいさい、くびにおはぐろを付ておじゃる・・・くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった。

これは、戦国時代の混乱の中での思い出話を筆録した「おあむ物語」の一節だ。老女が語った体験談は、まさしく戦国時代の戦の処理の部分であろう。戦国時代の武士の仕事は戦だ。戦に身を投じて勝たねばならない。そこでふと疑問に思う。実際に戦乱の中において、当主は家臣の仕事ぶりをどうやって評価していたのだろうか。今回は、ちょっと血生臭い戦国時代の実績評価方法について紹介しよう。

敵の大将の首なら、当確出ました?

戦に勝てば、待ちに待った「論功行賞(ろんこうこうしょう)」だ。これは、当主がそれぞれ家臣の手柄を見極めて、武功に応じた報償を与えることをいう。いうなれば、上司の部下に対する実績評価と同じである。

では、何をもって評価とするのか。
確かに戦乱の中では自分の命すら危ういもの。他人の働きなど、なかなか目を配る余裕などない。そこで登場するのが、ズバリ「敵将の首」というワケだ。戦いの中で討ち取った「首」が、論功行賞の判断基準となる。首の数かと思いきや、やはり優先されるのは「身分の高い武将の首」。それを見極めるために行われるのが「首実検(くびじっけん)」といわれる一連の儀式である。

「首実検」という言葉からは、ただただ恐ろしいイメージだけを持ちそうだが、これは評価の判断材料のためだけではない。亡くなった敵方の武士を慰霊するという目的もあったとされている。

内容としては、まず、討ち取った敵方の首を集める。そして、それぞれの首から敵方の誰なのかという素性を確認、討ち取ったとする家臣の自己申告の真偽を見極めるというものだ。この首実検の前に行われる準備が大変である。首についた泥や血を洗って綺麗にして、髪をとかし、白粉などを使って化粧を施すのだ。そうして、誰の首か、誰が討ち取ったのかが明確となるよう「首札(くびふだ)」がつけられる。

なお、首札や首を置く台は身分によって材質が異なったという。敵方の大将には桑の木の首札、檜の大きな首台を使用、場合によっては昆布などの供物も用意されていたのだとか。呼び方も「首実検」ではなく「首対面」とされていた。大将の次の諸将の場合は、椿か杉の首札、首台は大将よりも小さめで、「検知」と呼んでいたという。これが下級武士や雑兵になれば、椿か杉の首札にて、ひとまとめにして一気に並べられたそうだ。

祟りを恐れる?首実検で厳格な作法を踏む理由

じつは、この首実検、なあなあな感じで進めるわけではない。一連の厳格な作法が決められている。

まずは服装。首実検に参列するには完全武装がしきたりだ。というのも、敵方が大将の首を奪還する可能性があるのと、信じられない話だが「首」がヒュッと襲い掛かる場合に備えてということらしい。実際、首実検の際には、確認する総大将の横には、弓を構えた武装兵がいたとされている。もちろん、いざという時のためだ。今にしてみれば、首が飛んでくることを「いざという時」というのもおかしな話だが、当時は「恨み」や「遺恨」を恐れていた。ちなみに、首を確認する総大将は真正面から直視せず、横目で確認し、二度見はしないのが作法だという。

それだけではない。なんと、討ち取られた顔に表れる表情で「吉」か「凶」かを占う風習があったという。というのも、死に際は全員が安らかにというわけではない。戦いの中で無念ながらも死に至る。その斬首されるときの生々しい表情が、案外残っていたりするという。顔の中でも、特に注目されるのが「眼」。眼がどこを向いているかで判断された。例えば、片眼だけ開けている場合は不吉とされ、歯を食いしばっているものも同様、「怨念が強い」としてお祓いをしたようだ。

首実検のあとは、何通りかのパターンがある。礼儀を重んじて、「首桶(くびおけ)」に入れ、首そのものを敵国へ送り返す場合もある。一方で、領主交代を周知するために「獄門(ごくもん)」として首をさらすこともされていたようだ。また、残った首を一気に埋めて塚として弔うこともある。これが全国各地にある「首塚」と呼ばれるところである。

やっぱり「一番」が一番いい評価なの?

さて、武功は討ち取った「首」という結果だけではなく、行動に対しても評価が与えられた。例えば、大将首を討ち取ったのが第一位。これは分かる。大将が討ち死にすれば、戦の勝負がつくからだ。しかし、じつは第二位が「一番首」。誰よりも最初に敵方の首を討ち取ったものが評価された。

それだけではない。最初に敵武将と槍を交わした「一番槍(いちばんやり)」、これが刀の場合は「一番太刀(いちばんたち)」となる。これらも評価が高かった。さらにアシスト賞ももちろんある。一番槍を支援した場合は「槍下の功名」としての評価がなされた。敵の敗走を追い詰めて多く討ち取ったものも「崩際(くずれぎわ)の功名」とされた。

積極的に攻撃するだけではない。守備に対しても評価はなされる。見本となるような行為に高い評価を与えれば、真似する者も出て自陣の士気も上がる。一石二鳥だ。例えば、撤退時に最後尾で味方が逃げるのを支える場合には「殿(しんがり)の功」、負傷者を助けながら撤退した場合には「負傷者を助けて退く功」として認められたという。

なお、報償はというと、敵から取り上げた領土の分配、表彰状のような意味合いを持つ「感状(かんじょう)」が一般的だ。そのほかにも、当主が大事にしている刀や茶器などを与えられる場合もあったという。

いつの世も自己チューな輩に大騒ぎ

武士は潔くあれ。なんだかそんなイメージを持つのは私だけだろうか。しかし、いつの世もちょっとズルしちゃえという不届きな輩がいる。

冒頭で紹介した「おあむ物語」。あおむは、関ヶ原の戦いの西軍「石田三成(いしだみつなり)」に仕えた山田去暦(やまだきょれき)の娘とされている。物語の一部には、関ヶ原の戦いの際に美濃大垣城に籠城し、天守で味方が討ち取った首を点検する作業の様子が、伝聞として描かれている。

じつは、その中でおあむが「お歯黒」を施している部分がある。そもそも、当時「お歯黒」は、身分の高さを表すもの。つまり、自分が討ち取った武将がお歯黒をつけていれば、自分の評価が上がるわけだ。そこで、自己チューな侍衆は考える。少しでも評価を上げてもらうにはどうするか。さすがに首をすり替えることは難しい。ただ、首のランクを上げることはできるはずだと。功名を立てたいが為に、おあむに頼んで、真っ白な歯に「お歯黒」をつけてもらうズルを企てるというワケだ。いつの世も、小手先だけに頼る浅はかな輩はいるようだ。

一方で、論理的に解決しようと考える輩もいる。勝ち戦となれば、その場で当主が家臣の功績を認定し、恩賞を与えることもしばしば。となれば、落ち着いてからでは遅い。戦場で、自分の有利にことが運ぶようにしなければならない。そこでヒントとなるのが、過去の事例である。過去にこんな行動でこんな恩賞が与えられたという証拠があれば、おねだりもしやすい。そのため、戦場に過去の訴訟文書や先祖代々の古文書を持参して、参考資料として提出する輩もいたという。根回し上手というか、なんとも豪傑な武士らしからぬ微妙な作戦である。

どちらにせよ、いつの世も自身の評価を上げるには、待っているだけでは不十分ということか。戦では命を懸けて戦う。そして、勝ったあとも、自身の評価のための戦いが待っている。戦国時代、生き抜くためにはけっこうな長丁場をやり遂げる図太さが必要なのかもしれない。

参考文献
『戦国 戦の作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2018年6月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『目からウロコの戦国時代』谷口克広 PHP研究所 2000年12月
『早わかり戦国祖史』戸川淳編著 日本実業出版社 2009年3月
『戦国入門 戦いとくらしの基礎知識』二木謙一監修 河出書房新社 2019年9月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。