水戸藩主、徳川斉昭の側近として活躍した藤田東湖(ふじたとうこ)。NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、渡辺いっけい氏が演じています。
エキセントリックな面もあったとされる藤田東湖はどのような人物だったのか、また注目を集める彼の「死因」についてもご紹介しましょう。そして東湖が亡くなったことで「なにが起きなかったか」を考えてみたいと思います。
藤田東湖とは、どのような人物か
藤田東湖は、徳川斉昭(水戸藩主)のブレーンをつとめた水戸藩士です。もっとも知られている東湖という名は雅号で、諱(本来の名)は彪(たけき)といいました。父の藤田幽谷は、庶民の出身ながら儒者として高名であり、また、水戸藩に士分として取り立てられたのち、徳川光圀が興した水戸学を発展させた後期水戸学の中心人物と目されていた人です。
頭脳ばかりでなく体格にも優れた東湖は、身長六尺に近く、肉付きも良く、当時としては大男と呼ばれるほどでした。大洗町「幕末と明治の博物館」に収蔵されている肖像画は、背を丸めながら正座していて、大きな身体を小さく見せようとしている様子が窺えます。
人格形成に影響を与えた『正気歌』
父の幽谷は、八歳か九歳だった東湖に文天祥の著作『正気歌(せいきのうた)』を与えました。
文天祥は滅び行く南宋に忠誠を尽くした人で、母国がモンゴル帝国に呑み込まれたあと、皇帝クビライから出仕の勧誘を受けたのを断りました。名作として名高い『正気歌』は、その時期に詠まれた漢詩です。やがて文天祥は反乱分子のシンボルと看做されるようになったため、クビライは処刑せざるを得ませんでした。
幼いころに父から与えられた『正気歌』は、東湖の人格形成に大きく影響しています。
「攘夷」を身近に感じた19歳
一方で武芸の方は14歳のとき父の江戸出府に随行したのを契機として、岡田十松の神道無念流撃剣館に入門しています。
そのころ日本近海に外国船が出没しはじめ、水戸藩領でも文政7年(1824)に英国人が上陸して騒動になった大津浜事件が起きました。そのとき数え19歳だった東湖は現場に駆け付けましたが、英国人は立ち去ったあとでした。東湖が「攘夷」という考え方を身近に感じたであろう出来事です。
父、幽谷の死後
文政10年(1827)に幽谷が没したあと、東湖は二百石の家禄を継いで進物番に列せられ、彰考館の編輯に名を連ねました。彰考館とは、神武天皇から後小松天皇による南北朝合一までを紀伝体で著した『大日本史』の編纂事業を担当する、水戸学の総本山ともいえる存在でした。徳川光圀によって始められた『大日本史』編纂は、明治39年(1906)に完成するまで249年がかりの大事業で、当時は事業継続中でした。
水戸藩主・徳川斉昭の補佐と八年に及ぶ蟄居生活
やがて東湖は斉昭の藩政を輔佐するようになり、弘道館(藩校)の設立や、水戸藩の軍備拡充に取り組みました。しかし、この藩政改革は行き過ぎだとして、斉昭は弘化元年 (1844)に幕府から隠居・謹慎の処分を受けました。東湖もまた蟄居を命ぜられ、小石川(東京都文京区後楽)の水戸藩上屋敷の一室に押し込められたのでした。
その後、小石川から小梅(東京都墨田区向島)の下屋敷に移されて、座敷牢での生活は八年に及びました。堪えがたい夏の暑さに遭って入浴もままならず、蚤や虱に苦しめられた年月でした。
水戸藩でも幕府でもなく、日本全体を見据える
その間に東湖は自伝的著作『回天詩史』を著したほか、幼いころに父から与えられた『正気歌』のオマージュである『文天祥正気の歌に和す』を詠みました。その冒頭を見ると
天地正大の氣、粹然(すいぜん)として神州に鍾(あつま)る……
高須芳次郎編『藤田東湖選集』p358より
まだ日本に「国家」という意識が希薄だった時期に、東湖が憂いていたのは「水戸藩」ではなく「幕府」でもなく、「神州」と表現した日本全体のことでした。
そして、「生きては主君斉昭にかけられた濡れ衣を晴らし、また国家の大綱を定めるような活躍をしていただきたい。死しては忠義の鬼と化し、天地のある限り、国家の基礎を護りたい」と結んでいます。
その甲斐あってか、弘化3年(1846)に斉昭の謹慎は解かれ、嘉永6年(1853)のペリー来航に際しては老中首座・阿部正弘に請われて海防参与に就任、幕政に関与する立場となりました。
そのころ、東湖も嘉永5年に謹慎を解かれており、斉昭の海防参与としての活動を輔佐しました。この時期には、越前福井藩の橋本左内、薩摩藩の西郷隆盛などと交遊し、少なからぬ思想的影響を及ぼしています。
東湖の最期 母を護って圧死「安政江戸地震」
安政2年(1855)10月2日、江戸の町を大地震が襲いました。この安政江戸地震は、東湖の姪にあたる豊田芙雄が11歳のときのことで、そのとき水戸に居た姪には、以下のように最期の様子が伝えられています。
その時伯父の母(幽谷夫人)梅子も一緒に藩邸にゐたのですが、地震で一旦逃げ出したものの、部屋の火を消して来なくてはと、引返さうとするのを「お母さん、危ぶない、私が代りに行かう」と伯父が抱き止めたその時、梁が落ちて来たのだと聞いてをります」
毎日新聞社サンデー毎日編集部編『生きている歴史』p3より
天井が崩れ落ちたとき、咄嗟に梁を肩で支えながら老母を脱出させたものの、自分は力尽きて圧死した、というふうにも伝えられています。
陰嚢を露出し語ったこととは
東湖にはエキセントリックな面もありました。
薩摩藩の有村俊斎が東湖のもとへ訪れたとき、東湖は「君はバクチを知っているか」と問いました。俊斎が「無用のことでしょう」といったところ、東湖は「大志を持つものは、須く好悪ふたつながら知るべきだ」と、サイコロ賭博の真似事を始めました。最初は金品を賭けずにやっていたのが段々とエスカレートして、負けた側が着ているものを脱いで相手に与えるようになり、負け続けた東湖は、「余す所は只一帯の犢鼻褌(ふんどし)あるのみ」というところまで追い詰められました。
絶体絶命の大ピンチで、さらに苦杯をなめた東湖は「終に陰嚢を露さざるを得ざるに及べり」となりました。調子に乗った俊斎が「町には一人として衣服を着けない者はいません。どうして彼らの陰嚢を目にすることが出来ましょうか」と余計なことをいうと、 東湖は、君の眼力はまだまだだと評しました。「衣服を被ると雖も、その陰嚢は常に余の眼中に露現し来る」と豪語したのです。そのうえで、バクチで毟り取るのは約束事があってのことだが、官吏が民衆から毟り取るありさまは見るに堪えない、というのです。
杉原三省著『藤田東湖言行録』p110~113より
なるほど、博徒の親玉は滅多なことで生命を奪うことはしませんが、酷吏は窮民を餓死させたりしますものね。
そういう教訓を、東湖は陰嚢を露出したまま語ったとのことです。
東湖の死で、なにが起きなかったか
さて、東湖が亡くなったことで、なにが起きなかったかを考えて見ます。
東湖が亡くなったのち安政5年(1858)には将軍継嗣問題をめぐる政争が起きました。斉昭の子で一橋家を嗣いだ慶喜と、紀州徳川家の慶福(のちの家茂)と、どちらを将軍に据えるべきかで争ったのです。斉昭をはじめとする一橋派は敗れ去り、安政の大獄と呼ばれる弾圧に晒されることとなりました。
派閥バランスの調製に長けていた東湖は、彰考館の内部で対立していた派閥との融和を果たしています。しかし、東湖が没したあとの水戸藩は、天狗党(改革派)と諸生党(保守派)との対立が深刻化、ついに内戦を演じるほどになって、幕末の政局に対する影響力を失いました。もし東湖が存命だったなら、将軍継嗣問題も、水戸藩の分裂抗争も、異なる結果となっていたことでしょう。そうなれば、尊皇思想の総本山たる水戸藩の存在感は、後発の薩長土肥よりも大きなものになったはずです。
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※アイキャッチ画像:『藤田東湖』工藤重義 (景文) 著 国立国会図書館デジタルコレクションより