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Culture
2021.02.28

幕末期の洋式砲術家、高島秋帆。幕府に投獄されたことで「何が起きなかったか」

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NHK大河ドラマ『青天を衝け』において、渋沢栄一に大きな影響を与える人物として登場する、高島秋帆(たかしましゅうはん)。俳優、玉木宏さんが演じることで注目されていますが、一体どのような人物だったのでしょうか。

幕末期の砲術家、高島秋帆の功績や、彼が投獄されたことで「なにが起きなかったか」についてご説明します。

高島家と高島秋帆について

寛政10年(1798)、高島秋帆は長崎で代々にわたって町年寄をつとめる旧家、高島家の三男として生まれました。苗字帯刀を許されながらも武士と庶民との中間に相当する家柄でした。

高島秋帆像
『近世二十傑. 第5巻』 伊藤痴遊 著 国立国会図書館デジタルコレクションより

高島家は長崎奉行のもとで貿易事務に携わり、出島のオランダ人との交わりがあって、秋帆は日本と西洋との軍事力の隔たりが大きいことを知っていました。また、高島家は鉄炮方を兼務、砲台を掌る家柄でもあり、切実に危機感を抱いていました。

洋式兵学の流派を創始

ときに文政8年(1825)、幕府は無二念打払令を発し、日本の沿岸に近づく外国船を見つけ次第に砲撃し、追い返すことを命じました。イギリスの商船やアメリカの捕鯨船が日本近海に出没、沖合で密かに日本漁船と物々交換していたことが発覚したためでした。

もとより海禁政策は幕府の祖法でしたが、それを強硬な姿勢で示すとなると、虚仮威しではない実力(軍事力)が必要です。秋帆は無二念打払令が発せられると、上司である長崎奉行に砲術研究の重要性を上申しましたが、受け入れられませんでした。やむなく秋帆は私費でオランダ語や洋式砲術を学びました。

ときのオランダ商館長デヒレニューが砲術に通じた人で、その協力を得ながら秋帆は様々な型の洋式銃を買い揃えたり、青銅砲を鋳造したりしました。そして、西洋流と号する洋式兵学の流派を創始し、天保5年(1834)に開設した塾の門人は300人に達しました。

諸組与力という正式な幕臣に

天保11年(1840)、清国で阿片戦争が勃発、清国軍は英軍に対して連戦連敗、西洋の優れた武器の威力と、合理的な軍隊の運用とに圧倒されてしまいました。

この機に秋帆は再び洋式兵学の必要性を幕府に訴えました。ようやく西洋の軍事力の脅威を悟った幕府は秋帆の意見を受け入れましたが、強硬な反対意見もありました。南町奉行など要職を歴任した鳥居耀蔵は徹底した西洋嫌いで、秋帆の上申を「田舎の小役人のたわごと」だとして却下すべきことを主張したのです。幕府による蘭学者・高野長英らに対する弾圧「蛮社の獄」の中心人物は鳥居でした。

翌年、秋帆は長崎からおよそ100人の門人を引き連れ、武州徳丸原で日本初の洋式軍事調練を実演しました。鳥居が「田舎の小役人」と軽く見ていた秋帆は、江戸に着くと諸組与力という正式な幕臣としての身分に引き立てられました。頭の固い幕府にしては大英断といえます。

秋帆の調練

天保12年(1841)5月9日、老中以下の諸役人が見守るなかで秋帆の調練は開始されます。長崎から連れてきた門人のほか江戸で入門した者も加えて総勢129名で、二つの歩兵部隊を編成したうえに騎兵3騎、野戦砲3門の操演をも加えた本格的な調練でした。

さすがに歩兵の装束まで洋服とはいかず、筒袖の上衣に裁着け袴、頭には秋帆の考案によるトンキョ帽と呼ばれた小振りの陣笠をかぶっており、もし、西洋人が調練を見ていたら珍妙に思ったことでしょう。

調練の演目は板橋区立郷土資料館の小西雅徳氏の「高島秋帆と徳丸原」発表要旨によると、以下のとおりです。

1、モルチール砲の操練(ボンベン-榴弾、8町目先へ3発)
2、モルチール砲の操練(ブランドコーゲル-焼夷弾、8町目先へ2発)
3、ホーウイッスル砲の操練(ガラナート-柘榴弾、8町目先へ2発)
4、ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル-葡萄弾、4町目先へ1発)
5、馬上筒の操練(1往復3挺使用)
6、ゲベール銃備打(97名が一斉射撃)
7、野戦筒の操練(3門の砲を使用)
8、剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名)

秋帆は訳語を用いず、武器弾薬の名称はもちろん、号令もオランダ語のままでした。

この演目にしても軍事史に通じた人すら首をひねるでしょうから少し解説しておきます。

モルチールとは臼砲で、現代戦で使用される迫撃砲に近く、軽快に運用できる小型砲です。

ホーウイッスルは榴弾砲で、臼砲より大きくて射程が長いです。

馬上筒とは騎兵銃のことで、歩兵銃に比べて銃身が短く、馬上で扱いやすいです。

野戦筒は砲車に載せた野砲のことです。

ゲベールは直訳すると「銃」で、ここでは洋式の小銃のことを指しています。筒先に着剣できるのは現代の小銃と同じですが、この頃の銃剣は現用のものよりずっと長く、手槍のようになりました。

この演目は、近代的な陸戦の手順に従ったもので、まず敵陣を砲撃して沈黙させてから騎兵が偵察に行き、歩兵が攻撃前進し、残敵に対する砲撃ののち、歩兵が追撃に移ります。

このなかで目を惹くのは、馬上筒の操練です。のちの戊辰戦争でも騎兵が部隊として運用された例はなく、わずか三騎ながら騎兵が部隊として用いられていることは特筆に値する出来事です。それによって歩・騎・砲による三兵戦術が、小規模ながら披露された意義は非常に大きいものです。

秋帆失脚の陰謀

徳丸原で洋式兵学の有用性が示されると、幕府は秋帆の流派を高島流と改称させ、その塾に旗本が入門することを許しました。そして、江戸に半年ほど滞在した秋帆は長崎に戻り、幕臣のみならず諸藩からも門人を受け入れることを許可されました。新たに加わった門人のなかには伊豆韮山の代官で、のちに反射炉を建造した江川英龍がいます。

このとき高島流洋式兵学の振興は約束されたかのようでしたが、徳丸原での成果に対する強い反発もありました。たとえば、和式砲術の伝統を受け継ぐ幕府鉄炮方は、異国の銃砲は日本に馴染まないと主張しました。また、秋帆の出身身分が武士と庶民との中間層だったことに露骨な嫌悪感を示す人々もいました。

かつて秋帆の上申に異を唱えた鳥居は、それらの反発を背景に秋帆を失脚させる陰謀を仕組みました。

私費で大量の洋式銃を買い揃えた秋帆は、謀叛を企てているに違いないというのです。

妖怪とも呼ばれた鳥居の執念は、証拠ひとつない罪状で秋帆を謀叛人に仕立て上げてしまいました。徳丸原での調練の翌年、高島家は断絶とされ、秋帆の身柄は武蔵国岡部藩に預けられました。いよいよ秋帆は死罪を免れないところまで追い詰められたのでした。

不幸中の幸いだったのは、鳥居の後ろ盾となっていた老中の水野忠邦が、天保の改革に行き詰まって失脚したことでした。それに伴って鳥居も権勢を失いました。辛うじて死罪を免れた秋帆でしたが、幽閉されたまま長らく捨て置かれてしまいます。

罪なき秋帆を出獄させなかったことには、幕府が強力な軍事技術の流布を嫌ったという背景もありました。諸藩を統制する幕府としては、諸藩よりも優れた軍事力を保有すべきでしたが、それを得るためには洋式兵学という新しい学問を修得する努力が必要です。それよりは新しい学問を普及させようとする者を弾圧する方が容易いからでした。

ペリー来航で国内情勢が一変 広がる洋式兵学

ときは流れ嘉永6年(1853)、ペリー来航によって国内情勢は一変します。外輪蒸気軍艦と帆走軍艦が二隻ずつ、たった四隻の黒船による恫喝に屈した幕府は、開国を約束させられました。

ペリー書翰 東京国立博物館蔵 Colbaseより

江戸湾の防備は幕府ばかりでなく、有力な諸藩にも分担させていましたが、いずれも甲冑をまとった旧態依然の軍勢でしかなく、黒船が放った空砲に腰を抜かすありさまだったのです。

こうなると新たな学問の普及を制限している場合ではありません。むしろ逆に、これまで抑止してきた洋式兵学の普及を促進しなければなりません。この状況に至って、ようやく赦免されて自由の身となった秋帆は、死罪を覚悟のうえで再び幕府に洋式兵学の採用を訴える上書を差し出しました。この上申を採用した幕府は、秋帆を富士見宝蔵番に取り立てたうえ、講武所支配及び師範として幕府の砲術を指導する立場を与えました。

その一方で、秋帆の門人だった江川英龍は江川塾を開き、子の英敏、英武の兄弟へと高島流の系譜を受け継がせました。その門下には佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎らがいて、幕臣ばかりでなく諸藩の人材をも受け入れながら高島流洋式兵学を広めました。沿岸防備は諸藩に分担させましたから、幕府ばかりが洋式兵学を独占するわけにもいかなかったのです。

長崎で生まれた高島流洋式兵学は、長崎の警備を担当した佐賀藩や、西洋の新知識の吸収に熱心だった薩摩藩にも影響を及ぼしています。のちの戊辰戦争で薩摩藩と佐賀藩は軍事技術における先進性を示しましたが、この両藩は秋帆が創始した高島流の影響を色濃く受けています。

日本の陸軍近代化の地ならしをした秋帆は、大政奉還によって幕府が政権を失う1年前にあたる慶応2年(1866)に病没しました。

秋帆が投獄されたことで、なにが起きなかったか

今回の「なにが起きなかったか」は、秋帆が投獄されなかったらどうなったかを考えてみます。おそらく幕府陸軍はオランダ式兵制で統一され、ペリーが来る前に近代化が始まっていたことでしょう。沿岸の防備も充実し、ペリー来航で生じた社会不安も軽減されていたはずです。日本は幕府を存続させたまま、近代を迎えていたかもしれません。それほどの逸材であった秋帆を、無実の罪で投獄したあげく、無実とわかってからも出獄させなかった幕府の愚かさは、本当に目も当てられないほどです。

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書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。