中世~近世の日本史でおなじみの「幕府」。
でも、そもそも幕府ってどんなものでしょう? なんとなく知った気になっていませんか?
幕府とは何か、各時代の豆知識と一緒にわかりやすくご説明します!
■和樂web編集長セバスチャン高木が解説した音声はこちら
そもそも「幕府」とは?
簡単に言うと、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)をトップに据えている武家政権です。
具体的には、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の3つが該当します。
戦国・安土桃山時代に全国を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし)の政権は当てはまりません。なぜなら彼の位は征夷大将軍ではなく、関白(かんぱく)だったからです。
全国を支配下に置いている武家政権と征夷大将軍の位、この2つの要素が大事!
ところで、どうして「幕府」と言うのか気になりませんか?
もとは中国の将軍が幕を張って陣を構えることや、出征中の将軍の陣営を指す言葉でした。
日本では、近衛大将(このえのだいしょう/宮中の警固などを司る近衛府の長官)の別名に使われ、そこから転じて、近衛大将の居所(きょしょ)も幕府と呼ばれました。
その延長で、武家政権の将軍の居所や武家政権自体も、のちに幕府と言われるようになったのです。
昔の幕府は「幕府」と呼ばれていない?
歴史の教科書を読んでいると、鎌倉時代から突然しれっと登場する「幕府」。
ところが、武家政権そのものを指す意味で使われだしたのは、江戸時代中期とされています。意外と最近!
つまり、鎌倉幕府と室町幕府は、存在した当時、別の呼び方をされていました。
鎌倉時代末期成立と言われる『吾妻鏡(あづまかがみ/鎌倉幕府が自分たちの歴史を綴った本)』を読むと、幕府という語句は登場しますが、「将軍の居る場所」の意味で使われています。
鎌倉時代、政権としての幕府やその将軍は「鎌倉殿(かまくらどの)」と呼ばれていました。
将軍に関しては、そのまま「将軍」または「幕下(ばくか)」と称する例もあります。
鎌倉幕府は日本初の武家政権でなかった
鎌倉幕府は日本最初の幕府ではありますが、「武家政権」の面では日本初ではありません。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)よりも早く、宿敵とも言える平氏が武家政権を築いています。
平清盛(たいらのきよもり)が武家で初の太政大臣(だじょうだいじん)となって政権を握ったことから、彼の政権こそ初の武家政権と見られています(成立時期は諸説あり)。
ただし、清盛は征夷大将軍ではないので幕府とは言わず、そもそも武家政権ではなく貴族政権と扱われていた時代もあります。
そういうわけで、日本初の幕府の座は鎌倉幕府のものです。
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幕府の長が「征夷大将軍」になったのは消去法?
建久(けんきゅう)3(1192)年、初代将軍となる源頼朝は征夷大将軍の位を与えられます。
もともと頼朝は「大将軍」の位が欲しいと申し入れており、それを受けた朝廷が提示した選択肢は以下の4つでした。
惣管(そうかん)、征東大将軍(せいとうたいしょうぐん)、上将軍(じょうしょうぐん)、そして征夷大将軍です。
このうち、惣管と征東大将軍は頼朝の敵となった人物の就任例があり、縁起がよくないので選択肢から外れました。
そして上将軍は中国にある位で、日本では先例がありませんでした。
結果、選ばれたのは征夷大将軍でした。
一応、過去に吉例があったという理由はあるものの、なんとなく拭えない消去法感……。
しかも、頼朝はたった数年で征夷大将軍の辞任を申し出たとされます。
そもそも大将軍の位を望んだのは、敵対勢力を支配下に置くのに必要だったからで、その達成後はさほど執着しなかったようです。
初期の室町幕府将軍も「鎌倉殿」
室町幕府の初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)は鎌倉幕府を滅ぼし、建武3(1336)年に新たな征夷大将軍となりました。
鎌倉幕府の将軍が鎌倉殿って呼ばれていたなら、尊氏は「室町殿(むろまちどの)」と呼ばれるのではって、つい考えてしまいませんか?
ところが、室町の名の由来は、第3代の足利義満(あしかがよしみつ)にあるのです。
義満が京都の室町小路(現在の室町通)沿いに邸宅を構えたことから、足利の将軍を「室町殿(むろまちどの)」と呼ぶようになりました。
ちなみに、室町幕府は唯一、京都を拠点とした幕府です。
初代の尊氏は当初、鎌倉幕府の新たな継承者と見られていました。そのため、「鎌倉殿」「鎌倉将軍」と称していたようです。
また、足利家の将軍には「公方(くぼう)」という呼び方もありました。こちらも義満以降、積極的に使われるようになったものです。
公方の名は、室町幕府の将軍のみではなく「鎌倉公方」「古河公方」など、将軍家から分裂して各地を治めた一族にも使われました。
そして、定着したこの呼び名は、のちの江戸幕府にも引き継がれます。
お前もか……江戸時代当時「藩(はん)」はそんなに使われていなかった
時は流れ、慶長8(1603)年。徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を創設します。
江戸時代は、幕府を頂点としつつ、諸大名たちがそれぞれの所領を治めていました。これを「幕藩体制(ばくはんたいせい)」と呼び、江戸幕府の特色となっています。
藩とは、1万石以上の領地を持つ大名たちが運営していた小さな政権と言えます。
薩摩藩(さつまはん)や長州藩(ちょうしゅうはん)など、幕府と同じく歴史の教科書にしれっと突然登場する「藩」ですが、江戸時代初期から使われていたわけではありません。
武鑑(ぶかん/大名や幕府役人のいろいろな情報が詰まった江戸時代の出版物)をいくつか見てみると、確かに「藩」の文字が見当たらない!?
公に「藩」が大名の領地を指す言葉として扱われるのは、なんと明治時代になってから。この言葉が一般に普及したのも同時期とされます。
あれ、江戸幕府、もう終わっちゃってる……?
江戸時代では、藩に代わる言い方として「国」「家中(かちゅう)」「領」「領分」、または領主の本拠地がある土地名で呼ばれていました。
ただし、藩自体は明治になって突然現れた呼び名ではありません。
たとえば、江戸時代中期の学者・新井白石(あらいはくせき)が『藩翰譜(はんかんふ)』という諸大名家の由来等をまとめた書物を作った記録があります。
また、幕末の書状にも「藩」の使用例が見られるので、使う人はいても今より一般的でなかったというところでしょうか。
なお、明治2(1869)年に版籍奉還(はんせきほうかん)が実施され、藩主にあたる身分だった人たちは知藩事(ちはんじ/藩の知事)に任命されます。
さらに明治4(1871)年に行われた廃藩置県(はいはんちけん)で、藩は県へと変更されました。
よく知っているつもりでも、いざ調べてみると「教科書では、現代人が理解しやすいように言い換えてくれてたんだな~」と感謝したり、「そうだったの!?」とびっくりしたり……それが歴史の面白さですね!
和樂web編集長セバスチャン高木が音声で解説した番組はこちら!
スタッフのおすすめ
アイキャッチ画像:ColBaseより『伝源頼朝坐像』(東京国立博物館所蔵)
主な参考文献
『鎌倉を読み解く 中世都市の内と外』 秋山哲雄/著 勉誠出版 2017年
『図説 室町幕府』 丸山裕之 /著 戎光祥出版 2018年
『論集 近世国家と幕府・藩』 幕藩研究会/編 岩田書院 2019年
『藩とは何か 「江戸の泰平」はいかに誕生したか』 藤田達生/著 中央公論新社 2019年