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2023.05.12

「らんまん」の牧野富太郎博士もリスペクト! 幕末の博物学者・飯沼慾斎の植物図鑑『草木図説』

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春はさまざまな生命が冬の眠りから覚め、活動し始める季節。梅・桃・水仙・桜・山吹・れんげ・タンポポ・菫などが次々に花開き、植物の新芽が顔を出す。

朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデル・牧野富太郎は自らを「草木の精」あるいは「植物と心中する男」と呼び、その生涯を植物の研究に捧げた。

ところで高知県の牧野植物園には博士の約5万8千点に及ぶ蔵書と共に、ある人物の遺品が種々残されている。その人物とは、飯沼慾斎(いいぬま よくさい)。彼もまた植物に魅入られた一人であった。幕末に『草木図説(そうもくずせつ)』という植物図鑑を著し、『牧野日本植物図鑑』が登場するまでは日本におけるもっとも近代的な植物図鑑として海外からも高く評価され、牧野の研究にも影響を与えている。

しかもその強固な意思と学ぶことに対する飽くなき探求心、高齢になっても衰えぬフィールドワークへの情熱は、時代を超えて2人の間に共通するアイテムのようだ。

知られざる幕末の博物学者・飯沼慾斎の生涯を追ってみた。

牧野富太郎と飯沼慾斎の関係とは何なのか、気になる!

※アイキャッチ画像は『草木図説』草之部稿本(個人蔵)『生誕230年 学び続けた飯沼慾斎 大垣市奥の細道むすびの地記念館』より転載

実は名医だった飯沼慾斎

伊勢から美濃へ 伯父の後継者として漢方医となる

ネットで飯沼慾斎を検索すると医者でヒットすることが多い。それは彼の本業が医者だったからにほかならない。慾斎が植物に興味を持つようになったそもそもの理由も、そこにあったのではないかと考えられる。また、タイトルを博物学者としたのも、彼の業績が医者や植物学者の範疇(はんちゅう)にとどまらず、多岐に及んでいるからだ。その理由をこれから見ていこう。

飯沼慾斎(幼名は本平 名は長順 慾斎は隠居後の号)は天明3(1783)年、伊勢国(三重県)亀山の西村家の次男に生まれた。叔父は鮫屋(さめや)という豪商で、一家は鮫屋を手伝っていたようだ。慾斎は店の帳場で遊ぶうちに読み書きや計算を覚えたという。

12歳の時に学問で身を立てることを決意し、親戚を頼って美濃国(岐阜県)大垣へ。母方の祖父・飯沼長義(ながよし)は宝来屋の屋号で商売に精を出すと同時に、狂言や書に親しむ文化人でもあった。慾斎は母の兄で町医であった飯沼長顕(ちょうけん 初代・龍夫)のもとで儒学や医学の勉強に励み、18歳で京都に遊学。朝廷の侍医であった福井榕亭(ふくい ようてい)に入門し、漢方医となる。22歳で従兄妹にあたる長顕の娘・志保(しほ)と結婚。2代目・龍夫となり、大垣の俵町で開業した。

❝江戸のくすりハンター❞小野蘭山との出会い

また、この頃、京都の本草学(ほんぞうがく)の大家・小野蘭山(おの らんざん)の門人となっている。本草学とはもともと中国で発達した薬物学で、江戸時代に隆盛を極めた。小野蘭山は積極的に野山をめぐって植物を採集し、『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』全48巻を刊行。彼の塾には日本中から人が集まったが、蘭山は名誉や利益のために本草学を学ぶことを嫌ったという。『本草綱目啓蒙』は後にシーボルトが手に入れている。

牧野富太郎と飯沼慾斎の関係とは何なのか、気になる!

漢方薬の多くは植物由来である。薬になる植物について知識を得ることは漢方医だった慾斎にとってマストだったはずだ。

小野蘭山。蘭山翁畫像 国会図書館デジタルコレクション

蘭方医として再スタート

「慾斎」という号を自ら付けた理由は、欲ばりだったからであるともいわれている。欲ばりといっても金銭欲や名誉欲ではない。生涯、彼は学ぶことに対して、とても貪欲だった。

所帯を持って身を固め、漢方医として忙しい日々をおくっていた慾斎は、28歳の時に妻子を親類に預けて江戸に出る。これにはどうしたわけがあったのだろうか。

ある時、慾斎は友人から蘭方医学(西洋医学)のすばらしさを説かれ、地元で蘭方を学び始めるが、それに飽き足らず、家財を売り払い、借金をして単身江戸に出る。江戸では津山藩(岡山県津山市に藩庁があった)の蘭方医だった宇田川榛斎(うだがわ しんさい)から蘭方医学を学んだ。

榛斎は江戸時代後期を代表する蘭方医で、一時期、杉田玄白の養子だった人物だ。榛斎が養子とした宇田川榕菴(うだがわ ようあん)はシーボルトとも親交があり、『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』などを出版して、西洋の植物学を日本に初めて紹介している。語学力に長けた榕菴は、現代でも使われている酸素や水素などの化学用語をつくった。榕菴はもともと大垣藩の藩医の息子で、その縁もあってか後に慾斎の三男が榕菴の養子に入っている。

『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』の「ぼたにか」はきっと「ボタニカル=植物の」の意味でしょう。漢字で書かれた英語、おもしろいですね!

さて、慾斎は江戸滞在をわずか1年足らずで切り上げ、大垣に戻る。猛勉強の末、短期間で蘭方医学を習得し、大垣に戻って蘭方医として再スタートを切った。その結果、大いに名声を博し、慾斎のもとに蘭方を学びに来る人々も多かった。45歳の時、藩から御目見(おめみえ)・帯刀(たいとう)を許される身分になった。つまり、町医者の身分でありながら、藩主に直接拝謁を許されたことになる。当時、これは大変な名誉だった。

大垣市俵町の薬木広場に建つ慾斎の胸像。この近くに屋敷があった

美濃初の人体解剖を行う

文政11(1828)年、46歳になった慾斎は大垣藩の許可を得て、弟子で高須藩(現在の岐阜県海津市のあたり)の藩医であった浅野恒進(あさの こうしん)と共に刑屍体の解剖を行っている。宝暦4(1754)年の山脇東洋に始まり、当時すでに人体解剖はそれほど珍しいことではなかったが美濃地方では初めてだった。人体のしくみや組織について知りたいと思うことは医師なら当然だが、同時に人体解剖への抵抗や嫌悪感もあり、一般の人々の理解を得るのは難しかったようだ。また、慾斎に対する他の医師たちの妬みも、なかなか根深いものがあったらしい。

60歳過ぎてからが人間はホントの勝負 本草学から植物学へ

50歳で隠居 60歳で本格的に植物の研究を始める

天保3(1832)年、50歳になった慾斎は家督を義弟に譲り、現在の大垣市長松町の別荘「平林荘(へいりんそう)」に隠居してしまう。養子として飯沼家に入り、家族を養うためにも医師として身を粉にして奮闘してきた日々は、心身ともにけっこうハードだったのだろう。隠居後は60歳ごろまでは客も断り、自分にとって興味関心のある事柄だけに没頭していた慾斎だったが、弘化元(1844)年、突如として奮起し、『草木図説』の著述に取り掛かった。この時、慾斎は62歳。そしてこれからまた、彼の突き抜けた人生が始まるのである。

62歳からまた快進撃!?

リンネの植物分類法を日本に紹介した伊藤圭介

当時、尾張や美濃の藩士や医者、民間人を中心に結成された「甞百社(しょうびゃくしゃ)」という植物研究グループがあった。彼らは定期的に集まっては博物会を開催し、近郊の野山に出かけては薬草を採集していた。

江戸や京都にも同様のグループがあった。しかし江戸は幕府のお膝元で監視の目が厳しく、京都近郊は採薬地が限られていたことなどから活動するのに良い条件に恵まれていたとはいえない。その点、尾張や美濃の近郊は野山も多く、比較的自由に行動することが許されていたようだ。

やがて「甞百社」の中心になったのは、伊藤圭介だった。名古屋の町医者の次男として生まれた彼は、後に京都に遊学して蘭学を学び、長崎に赴いてシーボルトから西洋の植物学を学んだ。名古屋に戻る際、シーボルトからツュンベリーの『日本植物誌』を与えられた。ツュンベリーは❝植物分類学の父❞と称されるリンネの愛弟子で、長崎の出島にあるオランダ商館で医師として患者の治療に当たった。

シーボルトやツュンベリーが来日した目的の一つに、日本での植物採集があった。日本の植物は彼らにとってたいそう魅力的であり、それらを観賞用として母国に持ち帰ることが使命の一つだった。彼らはプラントハンターでもあったのだ。その結果、リンネの植物分類法が日本に伝えられ、本草学とは視点の異なる植物学が生まれる基礎となった。

伊藤圭介は医者でもあったが、『日本植物誌』を元に『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を著し、リンネの分類法を日本に紹介した。雄しべ、雌しべという言葉を作ったのは彼である。後に東京に行き、東京大学員外教授として小石川植物園に勤務し、日本における理学博士の第一号となった。

伊藤圭介(1803∼1901) 国会図書館「近代日本人の肖像」
伊藤圭介と岐阜の野草については、記事下部の関連記事をぜひご覧ください!

漢方医学と結びついて発展した日本の植物研究

慾斎と伊藤圭介には20歳という年の開きがあったが、慾斎は彼らとの親しい交わりを喜び、新しい知識を得ることにとても熱心だった。「甞百社」にはオブザーバー的な立場で参加していたらしい。伊藤圭介らも年長者で博学多才な慾斎を尊敬し、大切にした。慾斎はシーボルトと会見しようとしたが、これは果たせなかった。しかし、伊藤圭介によって紹介されたリンネの分類法を日本の植物にあてはめることで新たな植物図鑑を作りあげた。これが『草木図説』である。

江戸時代、慾斎以前にも植物図鑑的なものはすでに何冊も発行されていた。江戸時代初期の本草学者でベストセラー『養生訓(ようじょうくん)』の著者・貝原益軒(かいばら えきけん)の『大和本草(やまとほんぞう)』、前出の小野蘭山の『本草綱目啓蒙』、慾斎と同じく蘭山門下の本草学者・岩崎灌園(いわさき かんえん)の『本草図譜(ほんぞうずふ)』(全96巻)などである。漢方医療と密接に結びついた本草学が重視され、また医療に役立つものとして、植物の研究がいかに盛んに行われていたかがわかる。

岩崎灌園の『本草図譜』は2000種もの植物を紹介した日本で初めての本格的な植物図鑑。最初の数冊は出版されたが、残りの巻については予約制で模写したものを頒布した。岩崎常正『本草図譜』[1],山城屋佐兵衛[ほか1名],文政13 [1830]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2556057 (参照 2023-04-06)

『草木図説』は本草学と西洋の植物学のハイブリッド

『草木図説』の編集理念

彼は『草木図説』の編集理念について次のように示している。以下は大垣市奥の細道むすびの地記念館発行の『生誕230年 学び続けた飯沼慾斎~日本植物学の夜明け~』からの抜粋。

不明な植物を調査・研究するためには東洋の本草学を基礎に、西洋の植物学を加えて詳しく調べる必要がある。それにより人間生活においてその植物が有用か究明することができる。

慾斎の『草木図説』は本草学と近代植物学とのハイブリッドによって生まれた植物図鑑だった。

まずは慾斎が自ら描いた色鮮やかな『草木図説』の稿本(印刷された本の元になった原稿)の図を見てみよう。
※以下3点は『草木図説』草之部稿本、個人蔵 生誕230年 学び続けた飯沼慾斎 大垣市奥の細道むすびの地記念館 第6回企画展 転載

アザミ

ハナアヤメ

ビジンソウ(ひなげし)
葉脈や花の非常に細かい部分まで丁寧に描かれていますね。

慾斎が用いたリンネの植物分類法とは?

リンネの植物分類法とはいったいどんなものだったのだろうか。

花には雄しべと雌しべがあり、雄しべが作った花粉を雌しべが受粉することで実を結び、子孫を残す。今ならだれもが知っていることだが、当時はだれも知らなかった。リンネは植物によって異なる雄しべと雌しべの数や形を分類することで、世界中の植物を24に分類した。また植物に学名をつけることを考案した。たとえば、朝顔の学名はIpomoea nil(イポモエア ニル)で、最初のIpomoeaはサツマイモ属であることを意味し、ツルが何かに絡んで這い登ることから芋虫に似たという意味。nilはアラビア語で朝顔を表す。このようにラテン語による属名と種小名の2語からなる命名法で、リンネは世界中の植物に名前を与えた。リンネによる分類法は植物だけでなく生物全般に応用され、現代でも広く用いられている。

『草木図説』の稿本はすべて彩色され、美濃和紙1枚の右半分に植物の図が描かれ、左半分には植物についての説明が漢文の読み下し文で書かれている。発刊したものは白黒の二色刷りだが、植物の葉の表面を黒く、裏を白くしてわかりやすくしている。オランダ語の名前が付けられている植物もある。飯沼, 慾斎 ほか『草木図説前編 20巻』[6],出雲寺文治郎[ほか12名],安政3. 国立国会図書館デジタルコレクション

顕微鏡を用いて描かれた植物の解剖図

『草木図説』の余白には、拡大された植物の解剖図が掲載されたものもある。嘉永4(1851)年、慾斎は伊藤圭介から高倍率の顕微鏡を手に入れている。この顕微鏡は木製の箱型になっており、使わないときは箱に収納、携帯もできるように工夫されている。使用するときは、蓋の穴に部品を差し込んで使用する。レンズの倍率は30倍。現在は高知県立牧野植物園が所蔵している。慾斎はこの顕微鏡を使って解剖図を描いたと考えられている。

余白に解剖図が描かれたボタンニンジン。 飯沼, 慾斎 ほか『草木図説前編 20巻』[5],出雲寺文治郎[ほか12名],安政3. 国立国会図書館デジタルコレクション

晩年になっても衰えなかったフィールドワークへの情熱

慾斎の採集地ベスト3は伊吹山・白山・菰野山

慾斎は最晩年になっても山駕籠に乗って山奥深く分け入って植物採集を行ったという。植物についての採取地が記載されていないものも多いが、一番記載例の多かったのは岐阜と滋賀にまたがる伊吹山、次に白山だという。ともに山岳信仰と係わりが深く、植物の宝庫として知られる山である。

慾斎のお供をしたのは尾張の花戸(かこ)だった。花戸とは植木屋のことである。当時、尾張には植木屋曽吉(小栗曽吉・花戸曽吉)という人物がいた。彼は尾張藩の薬園掛で、甞百社の人々と共に採薬に出かけ、時には植物見本を提供するなどして尾張藩の本草学に貢献した。

慾斎は76歳の時、伊藤圭介らと共に伊勢の菰野山に数日間、採薬に出かけている。その時の様子を描いたものが「菰野山採薬図」として、三重県菰野町にある菰野小学校に残っている。

図の中央に傘をかぶっているのが伊藤圭介、その左に立っているのが慾斎である。菰野山採薬図(複製)菰野小学校蔵 

慾斎81歳「しかし、まだ仕事は完成していない」

慾斎は70歳で『草木図説』草部の稿本を完成させた後、74歳から80歳まで4回に分けて同書を出版している。
81歳の慾斎は自分の研究に対する心情を次のように言い表している。

81歳は過ぎたけれど、仕事はまだ完成していない。しかし、あせっても仕方がないとひとり笑いしつつ、また、我を忘れて机に向かっている。 『生誕230年 学び続けた飯沼慾斎』大垣市奥の細道むすびの地記念館発行 より転載

傘寿(さんじゅ 80歳)を過ぎてなお、慾斎の学問に対する情熱は衰えることを知らなかった。
晩年には写真をはじめ藩命による砲火薬製造の研究にあたった。こうなってくるともはや植物学者の範疇を超えている。博物学者といわれるゆえんである。

最晩年に「あと10年生きられたら本当の絵師になれるのに」と言った葛飾北斎を思い出します。超絶浮世絵師、葛飾北斎のAtoZ!世界を震撼させた傑作から私生活まで徹底紹介

79歳の時には幕府から番所調所(ばんしょ しらべどころ)物産学出役を命じられたが、さすがに高齢のため出仕を断っている。番所調所とはペリーの来航をきっかけに、外交や軍事面強化の必要性を感じた幕府が設置した洋学についての研究機関である。同様に要請を受けた伊藤圭介は幕府の求めに応じて江戸に住まいを移し、後に東京大学の教授となっている。慾斎もあと10年若かったら、江戸に行っていたのではないだろうか。

慶応元(1865)年、明治維新を目の前にして、慾斎は83歳で旅立った。
『草木図説』木部の出版は果たせず(死後100年以上経って、植物学者で京都大学名誉教授の北村四郎によって出版)、植物学の研究は次世代の人々によって引き継がれた。

飯沼慾斎と牧野富太郎

世界に紹介された『草木図説』新訂版

さて、それではここで最初の問いかけに戻ろう。
牧野富太郎とは生きた時代も異なり、師弟というつながりさえもない飯沼慾斎の遺品が、なぜ牧野植物園内の牧野文庫に保管されているのだろうか。
それには植物が結んだとしか思えない不思議な縁がある。

『草木図説』は慾斎の死後、新訂版、増訂版が出されている。新訂版とはすでに出版された本の内容を新たに訂正したもの、増訂版は不足している部分を付け足し、間違っている箇所を訂正したものである。

新訂版は明治8(1875)年に博物学者で農務官僚でもあった田中芳男によって発刊された。初版本に慾斎の肖像画、植物ごとに科名と学名を補っている。
田中芳男は慾斎と親しかった伊藤圭介の弟子で、博物館という言葉を作り出した人物だ。学名の校訂はフランスの植物学者・フランセとサバチェによって行われた。これによって『草木図説』は海外にも紹介され、高い評価を受けるようになった。

田中芳男 近代日本人の肖像 国立国会図書館

聖地巡礼?! 慾斎の隠居所「平林荘」を訪れた牧野富太郎

明治35(1902)年4月、牧野富太郎は慾斎の隠居所であった大垣の平林荘を訪れている。
牧野がいつ慾斎のことを知ったのかはわからない。独学で植物学を研究していた彼のことだから、どこかで『草木図説』を読む機会を得たのかもしれない。

同年10月、『草木図説』の新訂版を出した田中芳男は牧野に手紙を書いている。それは「岐阜人、大垣人から増訂版『草木図説』をぜひとも出版してほしいと懇願され、私は引くに引けない状態になっている。どうか、察してほしい」という内容だった。

牧野が平林荘を訪れたのは田中の手紙を受け取る前のことだった。その時、すでにこの件でなんらかの打診を受けていたかもしれない。平林荘の庭には海外由来のものも含めて、慾斎が各地で採集した数百種もの植物が植えられていたという。『牧野富太郎植物採集行動録』(明治・大正篇)によると、牧野は慾斎遺愛のトウツバキの花の写生図を描き、自著に掲載している。

平林荘の門。慾斎が亡くなった後に、大垣城の城門を移設した。現在は個人の私邸になっており、中を見ることはできない。牧野はその生涯において、慾斎が主なフィールドとしていた伊吹山を7回訪れており、明治39(1906)年には坂田郡教育会の招きで植物講習会を開催している。伊吹山から大垣までは比較的距離も近い。自分も魅力に感じている山に何度も植物採集に訪れていた慾斎のことをもっと知りたいと思ったのではないだろうか。アニメや漫画の登場人物に思いを馳せる人々がゆかりの地を訪れる聖地巡礼を思わせる
慾斎は時代を超えた、牧野富太郎の先生だったのかもしれませんね!

牧野富太郎による増訂版、発刊

明治40(1907)年から大正2(1913)年にかけて、牧野富太郎の手による『増訂 草木図説』全4冊が発刊された。牧野はその序において、

是れ我邦ありて以来、始めて我邦人の学術的に草木を分類記載せるもの(この本はわが国始まって以来、初めて日本人が学術的に植物を分類記載したものである)

と述べ、増訂版においては学名を再度訂正し、解説を補い、部分図や解剖図などを追加している。

牧野による『増訂 草木図説』飯沼慾斎 著 ほか『草木図説 : 草部』第4輯,三浦源助,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション

飯沼慾斎 著 ほか『草木図説 : 草部』第4輯,三浦源助,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション

慾斎の果たした役割

昭和15(1940)年に牧野富太郎は『牧野日本植物図鑑』を発刊。それはこれまでの本草学を脱し、日本で初めて科学的な視点で植物を説明した書籍であった。日本で図鑑という言葉を用いたのは同書が初めてと言われている。

飯沼慾斎は日本に植物学の夜明けをもたらした。科学という新たな視点を持って進化の道筋を示したのである。

また家業としての医者を引退し、高齢になってからの活躍ぶりは、高齢化社会がますます進む日本の現状に示唆を与えてくれているかのようだ。彼がもし現代社会で暮らしていたなら、真っ先にデジタルに興味を持ち、ITの知識を貪欲に吸収したのではないだろうか。世界最高齢のプログラマー・若宮正子さんにも匹敵する業績を上げることができたかもしれない。

人の命に限りはあるけれど、学びたい、知りたいと思う気持ちは永遠だ。

【取材】
大垣市奥の細道むすびの地記念館学芸員 上嶋康裕氏

(参考文献)
『生誕230年 学び続けた飯沼慾斎~日本植物学の夜明け~』 2013年 大垣市奥の細道むすびの地記念館
『薬史学雑誌』VOl6 №1 1971 日本薬史学会
江戸のくすりハンター 小野蘭山  くすり博物館 もうひとつの学芸員室 

書いた人

岐阜県出身岐阜県在住。岐阜愛強し。熱しやすく冷めやすい、いて座のB型。夢は車で日本一周すること。最近はまっているものは熱帯魚のベタの飼育。胸鰭をプルプル震わせてこちらをじっと見つめるつぶらな瞳にKO

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。