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2021.11.05

水戸藩士・藤田東湖ほか御老公の巻き添えで処罰された者たちが宥免——幕末維新クロニクル(1846年12月)

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日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。列強の圧に対して、幕府の対応はあいまいを極めます——。

前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。


オランダ国書を見た黄門さま——1846年3月
琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る。——1846年4月
戦列艦、突如として浦賀にあらわる!そして琉球に居座り続けるフランス艦隊——1846年6月
度重なる外国船来航、孝明天皇の耳に達す。その時下した「勅」とは——幕末維新クロニクル1846年8月
謹慎中の徳川斉昭登場!「戦艦製造は急務」…いや、そんなこといわれてもなぁ。——幕末維新クロニクル1846年10月

サムネイル画像は雑賀博愛監修「藤田東湖集」より藤田東湖近影(国立国会図書館デジタルコレクションより)

弘化3年

江戸幕府のブラック体質は、もうちょっとどうにかなりませんかねぇ。ことに琉球開港の問題について、ハッキリ「開港しろ」といいません。開港するなら自己責任で、と、いわれたって困っちゃうわけでして、はい。

11月(大の月)

朔日(1846年12月18日)

勅使徳大寺実堅「権大納言・武家伝奏」・同坊城俊明「前権大納言・武家伝奏」登営ス。大将軍徳川家慶及世子家祥、聖旨ニ奉答シ、其帰洛ヲ餞ス。公卿諸門主ノ使者、同ジク登営シテ帰京ヲ告グ。

 聖旨とは、要するに即位の礼をやるのにカネかかるから、ひとつヨロシクということでしょう。奉答は「万事おまかせください」一択でしょうけれどどれだけ出すかが問題です。寺社や諸大名からの寄進が幕府より高額だったりすると、面目を失いますからね。

2日

禁裏付内藤忠明「安房守」著京、参内ス。

 内藤忠明に禁裏付の辞令が出たのが7月28日、赴任の挨拶で江戸城に登営したのが9月25日、京へ着任したのがこの日です。禁裏付の定員は2人で、それぞれが与力10騎、同心40名を従えています。表だっての役目は禁裏の警衛でしたが、御所への人の出入りを監視したり、朝廷の経理を監督する役目も負っていました。

征夷大将軍徳川家慶、勅使及大乗院門主等ヲ営中ニ招キ、能楽ヲ催ス。

 能楽は武家の文化です。公家社会に属する勅使を、武家としてもてなそうということでしょう。

3日

春日祭

 奈良の春日大社例祭です。かつては旧暦2月と11月の年2回でしたが、現在は新暦の3月13日に行われます。

5日

幕府、寺社奉行内藤信親「紀伊守・村上藩主」ニ朝鮮信使聘礼用掛ヲ命ズ。

 いわゆる朝鮮通信使の応対を、寺社奉行に命じました。江戸時代に外国からの使者を迎えるのは琉球からと朝鮮からに限ってのこととしておりました。この時期には招かざる客が頻繁に押し掛けてきていますけどね。

高岡藩主井上正域「筑後守」卒ス「九月十三日」是日、養子正和「松三郎・後筑後守・前藩主正滝男」家督ヲ承ク。

 下総国高岡藩は現在の千葉県成田市の一部に位置した1万石の譜代の小藩です。さる9月13日に亡くなった殿様の名は(まさむら)と読みます。満19歳で死亡したと見られ(誕生日不明)、弟が跡を継いでいます。

6日

幕府、評定所一座及海防掛ニ命ジ、仏国提督「セシーユ」Cecilleノ漂民救護ニ関スル要求ニ就イテ評議セシム。是日、寄合筒井政憲「紀伊守・後肥前守」意見並諭告書案ヲ上ル。

 文政8年(1825)の異国船打払令では、近づく外国船は見つけ次第に砲撃せよと命じていたものですから、漂流者の救助なんかしたのが幕府に知れたら、打首獄門も覚悟しなきゃならなかったわけです。清国の広東にあったアメリカ貿易商社オリファント社のモリソンMorrison号が天保8年(1837)に日本人漂流民7人を送還しようとして浦賀水道に進入したとき、浦賀奉行所は問答無用で砲撃して追い返しました。後日、長崎のオランダ商館から事情を知らされた幕府は、異国船打払令を存続させるかどうか評議しましたが、評定所一座は存続を支持しました。結局は天保13年(1842)に薪水給与令が発せられて、来航した外国船に薪水・食料を与えて退去させることにしましたが、母船を失って艀で漂着した者をどうするかを決めていません。そして、さる5月11日、択捉島に米国の捕鯨船員7名が艀で漂着、対応に苦慮しているところです。漂流者保護は、いままさに対応すべき課題でした。

11日

森藩主久留島通嘉「伊予守」卒ス「8月18日」是日、世子通容「采女・後安房守」家ヲ継グ。

 豊後国森藩は、現在の大分県玖珠郡玖珠町に陣屋が所在した藩で、藩主一族は村上水軍に属した来島氏の後裔でした。外様の12500石の小藩で、明礬が特産品でした。亡くなった殿様の名前は通嘉(みちひろ)と読み、跡を継いだ世子は通容(みちかた)と読みます。

13日

新茶開、所司代酒井忠義「若狭守・小浜藩主」ヲ召シテ茶菓酒饌ヲ賜フ。

 朝廷は京都所司代の酒井忠義を召し出して、茶菓酒饌を賜ったとのことです。

15日

長崎奉行井戸覚弘「対馬守」参府ニ依リ、登営ス。

 さる6月7日、長崎に来航したフランス艦隊司令官から長崎奉行に宛てて差し出された書翰で、漂流民保護のことが申し入れられました。どう返答するか、幕府は11月6日に評議しておりますが、順番が逆ですよね。まず奉行の報告を受けてから評議すべきでしょうに。実状なんかどうでも良くて、上の決定に現場を従わせる気マンマンじゃないですか?

16日

幕府、川越藩主松平斉典「大和守」・忍藩主松平忠国「下総守」ニ、各金五千両ヲ貸与シ、浦賀警備ノ費ヲ補ハシム。

 かつて、長崎港にイギリス船が侵入したフェートン号事件では何人もが腹を切る羽目に。いざというとき切腹を覚悟しなきゃならない江戸湾警備に駆り出された川越藩と忍藩に貸与するのが5000両は安すぎます。ブラック幕府ですよ。

17日

勅使徳大寺実堅・同坊城俊明、江戸ヨリ帰京。是日、参内ス。

 勅使御一行さま、御無事でお帰り、なによりですね。

目付松平近韶「式部少輔」浦賀巡検ヲ了ヘテ江戸ニ帰ル。尋デ、幕府、評定所一座及海防掛ニ命ジテ、近韶ノ復命ニ基キ、浦賀警備ノ方策ヲ議セシム。

 さる8月20日から「浦賀近海ノ要地」を巡見していた目付の松平近韶(ちかつぐ)が江戸に戻りました。その報告に基づいて、浦賀警備の方策が検討されます。

19日

川越藩主松平斉典、藩士ニ砲術ヲ奨励ス。

 川越藩は相模警備を命ぜられており、江戸湾の防備とか、内海警備といったことに関わっています。

22日

新嘗祭

 年中行事です。天皇がその年に収穫された新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に供える儀式で、民間でも神社で新嘗祭が執行されました。かつては新嘗祭を過ぎるまで新米を食べない風習がありました。音読みなら「しんじょうさい」、訓読みなら「にひなへのまつり」で、一般にニイナメサイと呼ばれることが多いです。この時代の宮中では、11月下卯(げう)の日に催される習わしでした。12日に一度まわってくる「卯」の日のうち、その月の二度目を下卯といいます。三度目もある場合は最初を「上卯」(じょうう)、二度目を「中卯」(なかう)と呼びます。

23日

田安家主徳川慶頼「右衛門督」愛仁親王「閑院宮」ノ妹睦宮「佳子」ト婚ス。

 御三卿の田安慶頼が、閑院宮家から嫁取りしたとのことです。まだ12代将軍の家慶は健在ですが、嫡男の家祥は幼少の頃から病弱で、なおかつ人前に出ることを嫌って引き籠もりがちでしたので、万が一の事態に備えて御三卿に男子が生まれることが期待されていました。

24日

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」英国艦隊琉球渡来ノ状ヲ長崎奉行ニ報ズ。

 薩摩藩の殿様は、さる8月23日に琉球へと押し掛けてきた3艘の英国軍艦について、長崎奉行に報告しました。

25日

幕府、高知藩主山内豊煕「土佐守」ニ海防指揮ノ為先期帰藩ヲ允ス。

 高知藩=土佐藩の殿様が、海防の指揮を執るため、早期に帰国することが許可されました。

28日

小田原藩主大久保忠愨「加賀守」外警ニ依リ、倹素励行・武備充実ヲ令ス。

 小田原藩といえば二宮尊徳を輩出したことで知られますが、すでに尊徳が幕府直轄領の真岡代官所手附として取り立てられていた時期ですが、小田原藩の倹素励行には、尊徳の影響が色濃く残っていたことでしょう。

29日

幕府、作事奉行池田長溥「筑後守」ヲ大目付ト為シ、京都町奉行田村顕影「伊予守」ヲ作事奉行ト為ス。

 作事奉行は造営修繕など大工仕事を担当します。土木は普請奉行の担当でした。新任の田村顕影は京都町奉行をつとめ、仁孝天皇の大喪の礼と、新清和院(光格天皇中宮)の葬儀に立ち会ったことで、さる10月26日に勤労を賞されていました。

鹿児島藩世子島津斉彬「修理大夫」書ヲ前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」ニ復シ、琉球外警ノ状ヲ告グ。

 斉彬さん、義理堅いのは良いけれど、琉球の情勢を報せると水戸の御老公を刺激してしまいませんかねぇ。ちょっと心配です。

晦日

鹿児島藩主島津斉興、領内砲台築造ノコトヲ幕府ニ稟ス。

 鹿児島藩=薩摩藩としては、そりゃあ砲台くらい造っておきたいでしょう。列強が琉球を踏み台にして九州へチョッカイ出すとなると、真っ先にやられるのは薩摩と土佐でしょうから。

是月

本願寺・東本願寺両門主、年頭参賀ノ前後ヲ争ヒ、互ニ訴フル所アリ。朝議、其紛擾ヲ虞リ、批セズ。尋デ、其入覲ヲ停ム。

 本願寺は東西に分裂して以来、いろいろなことで競い合ってきました。京都御所への年賀の挨拶の順番を争ったとのことですが、朝廷は「だったら来ないで良いから」と、コメントしたとのことです。

十二月(小の月)

朔日(1847年1月17日)

水戸藩主徳川慶篤「左近衛権中将」・一橋家主徳川慶寿「民部卿」・田安家主徳川慶頼「右衛門督」ヲ参議ニ任ズ。

 大名や旗本に与えられる武家官位は、公家社会とは別個なものとされていました。そのうち普通の大名には従五位下(諸大夫・五位)国司(大和守など)くらいが授けられ、国持大名でも従四位下侍従くらいでしたから、今回の御三家や御三卿の当主に授かった参議は、三位も混ざるので格が高いのであります。

前宇和島藩主伊達宗紀「伊予入道」・福岡藩主黒田斉溥「美濃守」参府ニ依リ、各登営ス。

 宇和島藩の御隠居さま伊達宗紀(むねのり)は百歳近い長寿でしたが、このとき弘化3年(1846)は満54歳で、まだまだ老人というほどでもありませんね。福岡藩の殿様の黒田斉溥は薩摩藩島津家からの養子で、薩摩藩世子の斉彬とは兄弟のようなつきあい方でした。

8日

幕府、小姓組番頭格小姓太田資芳「播磨守」ヲ以テ側衆ト為ス。

 小姓組は軍制組織で、主君の身の回りの世話をする小姓じゃありません。番士として将軍の警固をつとめました。側衆は、将軍が日常を過ごす「奥向き」を差配する役目で、政務に携わる「表」の老中が退出したあとは、宿直の側衆が殿中のこと一切を取り仕切りました。

9日

萩藩主毛利慶親「大膳大夫」藩黌明倫館ノ拡張ヲ令シ、文武ヲ奨励ス。

 のちに「そうせい侯」と綽名された、萩藩=長州藩の殿様ですが、能ある鷹は爪を隠すとやら申しまして、この時期にはまだ隠してなかったのであります。

10日

幕府、書院番古賀増「謹一郎・後筑後守」ヲ以テ儒者見習ト為ス。

 書院番は将軍が外出するときに警固するほか、交代で駿府に駐在した番士です。儒者見習となると、勤務先は昌平坂学問所ですね。武官から文官への転身です。

11日

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」英国艦隊琉球来航ノ状ヲ幕府ニ報ズ。

 薩摩藩の殿様は、さる8月23日に琉球へと押し掛けてきた3艘の英国軍艦について、幕府にも報告しました。なお長崎奉行には11月24日に報じています。

14日

幕府、寄合筒井政憲「紀伊守・後肥前守」ニ朝鮮信使聘礼用掛ヲ命ズ。

 当クロニクルに何度か登場した筒井政憲は、かつて町奉行としてシーボルト事件を裁いた人でしたが、幕閣の政争の巻き添えで左遷されていました。それでも学識を知られた人だったから、なにかのときは声がかかるのですね。

宇和島藩主伊達宗城「遠江守」軍令ヲ制定セント欲シ、前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」ニ演武軍令書ノ借覧ヲ求ム。

 この演武軍令書ってのが何なのか、よくわからないんですが、一部で人気があった牛が牽引する装甲車とかの秘伝書ですかねぇ。宇和島の殿様、そんなのに期待しちゃって大丈夫ですか?

15日

幕府、奏者番本多忠民「中務大輔・岡崎藩主」ヲシテ寺社奉行ヲ兼ネシメ、先手頭水野重明「采女・後下総守」ヲ以テ京都町奉行ト為ス。

 岡崎藩の殿様、本多忠民(ただもと)は、本多平八郎忠勝の嫡流です。水野重明は、ここまで目立った事蹟がない旗本です。

沼田藩主土岐頼寧「伊予守」・久留里藩主黒田直静「豊前守」・壬生藩主鳥居忠挙「丹波守」・大多喜藩主大河内正和「備中守」・飯野藩主保科正丕「能登守」・小見川藩主内田正道「豊後守」参府ニ依リ、各登営ス。

16日

輪王寺門主入道慈性親王「明道・有栖川宮韶仁親王王子」登営、継承ヲ謝ス。

 さる10月13日に、武家社会でいう「急養子」みたいな事情で先代の輪王寺門主を継承することとなった慈性親王が、継承の挨拶のため江戸城に登城しました。

18日

幕府、目付松平近韶「式部少輔」等ノ浦賀検分ノ労ヲ慰ス。

 時代劇だと「大儀であった」と、御老中から声がかかる場面でしょう。

対馬府中藩主宗義和「対馬守」幕府ニ小藩意ヲ辺海防備ニ専ラニスル能ハザルヲ以テ、所領ヲ増サンコトヲ請フ。

 対馬は朝鮮半島と九州とのド真ん中に位置しており、対馬海峡を安全に航行するためには、是非とも押さえておきたいポイントです。古くは元寇で真っ先に襲われた歴史的事実もあって、外からの脅威には敏感です。防備のために所領を増やして欲しいということです。いや、手っ取り早く、現金を貰った方が良いのではないかと、ワタクシは思いますが。

19日

幕府、川越藩主松平斉典「大和守」ニ、居城焼失ニ因リ、金一万両ヲ貸与ス。

 川越城の本丸には、かつて将軍が鷹狩りに利用する御成御殿(おなりごてん)があったのですが、3代家光以降は川越城を利用することがなかったので、取り壊されて空き地になっていました。このたび焼失したのは二の丸御殿で、藩主一族が居住していました。この一万両で本丸に新御殿を建設するとのことです。

20日

先朝の遺物を議奏・武家伝奏以下の廷臣及在京の幕吏に頒賜す。

 仁孝天皇さまの形見分けは、武家社会に属する人たちにも及んでいたのですね。

22日

是より先、琉球中山王尚育、外国軍艦ノ頻ニ至ルヲ憂ヒ、特使ヲ清国政府ニ派シテ、外国人ノ退去・互市ノ拒否ヲ周旋セシメントス。鹿児島藩、制シテ之ヲ止ム。是日、琉球進貢使向元模、清廷ニ到リ、哀訴ス。

 事実上は薩摩藩に支配されていた琉球王国ですが、建前上は清朝の皇帝から冊封(さくほう・名目的な君臣関係)を受けた立場でもありました。中華帝国の冊封体制に組み込まれた周辺国は、皇帝に貢物をおさめて敬意を表しました。これが進貢(しんこう)です。琉球王国の進貢使は、2年に1度、およそ300人が派遣される習わしでした。進貢使は、琉球国王からの文書や献上する品々をおさめ、皇帝からは、国王への文書と高級な品々が下賜されました。その際、「あいついで外国人が押し掛けてきて困っています」と、退去や通商の拒絶などに口添えして欲しいと皇帝に哀訴したいというのを、薩摩藩としては「やめておけ」と云ったけれども、哀訴したとのことです。

24日

幕府、評定所一座及海防掛ニ命ジテ、長崎ノ警備ヲ議セシム。

 とっくの昔に高島秋帆が長崎の警備を増強すべきことを指摘し、そのための西洋兵学の研究も始めた矢先、投獄しちゃったんですよね。いまさら「間違ってました」と釈放するのは幕府の面子が許さないのでしょうねぇ。

琉球中山府三司官等、琉球在番奉行倉山作太夫「久寿」ニ、外国交易ハ琉球物産ノミヲ以テセンコトヲ答申ス。

 琉球在番奉行は薩摩藩の役職です。もし、外国交易を始めるなら琉球物産のみを扱うこととしたいと、琉球王国から要望されました。西洋人が好んだ東アジアの産物は、絹と茶です。日本の本土から絹や茶を買い付けたら、中間マージンだけでも充分に儲かると思いますが、そもそも通商には乗り気で無いようですね。

25日

征夷大将軍徳川家慶、高家戸田氏敏「加賀守」ニ命ジテ、仁孝天皇一周聖忌ニ陪セシム。尋デ、氏敏、疾アリ。高家品川氏繁「豊前守」ヲ以テ之ニ代フ。

 将軍家慶は、仁孝天皇さまの一周忌に高家の戸田氏敏を派遣しました。しかし、あいにくと病気になったので、高家の品川氏繁を代理としました。品川氏繁は末期養子として品川家を継いだ人なんですが、素性が良い人なのに生年不詳で、このとき何歳だったかわかりません。

征夷大将軍徳川家慶、幟仁親王「有栖川宮」ノ女線宮「幟子女王」ヲ養女ト為サンコトヲ内請ス。

 子に先立たれてばかりの家慶は、婚姻政策のために養子を貰わなきゃなりませんでした。幟子女王は天保6年11月1日(1835年12月20日)生まれ、満年齢なら11歳です。当時の結婚適齢まで、あと5年くらいでしょう。水戸家の七男である慶喜の生母の吉子女王は、幟子女王の大叔母にあたります。

征夷大将軍徳川家慶、養女韶子「精姫・有栖川宮韶仁親王女」ヲ久留米藩主有馬慶頼「中務大輔」ニ配スルヲ允ス。

 

 久留米藩は外様の21万石。大藩というほどでもありません。そこへ将軍の養女であり宮家の血統でもある姫君が輿入れすることに。カネかかりますよ、将軍の身内を迎え入れるとなれば。藩財政は大丈夫なんでしょうか?

27日

前宇和島藩主伊達宗紀、書ヲ前水戸藩主徳川斉昭ニ寄セ、製艦及海防ノ急務ヲ言フ。

 まだ50代で元気いっぱいな宇和島の御隠居様から、元気を持て余している水戸の御隠居様へ「製艦及海防ノ急務」を手紙で告げるだなんて、刺激しちゃったら良くないと思いますが?

28日

幕府、下野国ニ栽培スル朝鮮人参ノ移植密売ヲ禁ズ。

 薬用人参は日光神領の特産品でした。日光神領では冷涼な高地で大変な労力をかけ、なおかつ収穫まで6年かかる、栽培が難しい作物なんですが、たいへん高価なので、こっそりチャレンジしちゃう人もいたのでしょうね。

幕府、水戸藩士戸田銀次郎「忠敞」・同藤田虎之介「彪」・同今井金衛門「惟典」ノ蟄居ヲ宥免ス。

 かつて水戸の御隠居様が、まだ殿様だったとき、行き過ぎた藩政改革をしたことで隠居させられたわけですが、そのとき連座した水戸藩士のみなさんが宥免(罪を許すこと)されました。

29日

新清和院ノ侍女梅小路等ニ薙髪ヲ命ジ、其他歳俸ヲ給ス。

 さる6月20日に崩御なさった新清和院「欣子内親王・光格天皇中宮」の侍女が、薙髪を命じられました。

幕府及所司代酒井忠義「若狭守・小浜藩主」書籍ヲ学習所ニ献ズ。

 朝廷の高等教育機関として設立される学習所は、さる閏5月28日に建物が竣工、6月9日には教授陣が選任され、10月5日には公卿・堂上から書籍の献納がありました。いままた幕府や所司代から書籍の献納がありました。

是月

幕府、府中藩主宗義和ニ明秋参府ヲ命ズ。朝鮮信使ノ大坂延接復タ延期ノ議アルヲ以テナリ。

 さきごろ失脚した元老中の水野忠邦は、在任中、朝鮮通信使を大坂に招聘するようにプラン変更を企てていました。幕府の経費を節減する目的で、従来は江戸まで招聘していたのを陸路500kmばかりを短縮、その分の費用を減らそうというわけです。しかし、そんな招待プランで、相手が乗ってくるかはわかりません。えー、ケチくさいなと思われたら、来てくれないかもしれませんよ? 朝鮮国との取次役を任された府中藩=対馬藩こそ、好い面の皮です。

幕府、曩ニ目付松平近韶浦賀巡見ノ際、火技ヲ演ゼシ者ヲ褒賞ス。

 火技とは砲術のことでしょう。浦賀巡見に際して演武した者に褒賞が与えられました。

鹿児島藩、小姓岩切英助・藩医永嶺昌庵ニ琉球渡航ヲ命ズ。

 さて、この琉球派遣は、如何なる含みがあってのことでしょうか。薩摩藩は、何を考えているか、続報をお待ちください。

琉球中山府、特使を鹿児島藩ニ派遣し、外国貿易ノ内許ヲ謝センコトヲ議ス。

 この場合の「謝す」は、感謝するんじゃなくて、謝絶するという意味合いにとれます。琉球としては、できれば貿易なんかしたくない、ということなのでしょう。

是歳

萩藩支族吉川経幹「監物・後駿河守・後岩国藩主」藩黌養老館ヲ興ス。

 岩国の殿様、吉川経幹(きっかわつねまさ)が、藩校「養老館」を設立したのが、どうやらこの年のことらしいです。

水戸藩医原玄与「昌克・南陽」ノ著傷寒論夜話、上刻サル。

 原南陽は高名な医師で、東洋医学の分野では現代まで乙字湯や安中散などの処方に影響を及ぼしているとのことです。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。