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2022.03.11

源義経が激怒?屋島の戦いを描いた『那須与一』を解説

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ウィリアム・テルやロビンフッド。世界中に弓の名手として名高い人はたくさんいます。では日本人の弓の名手といえば!? きっと多くの人が「那須与一(なすの よいち)!」と答えるでしょう。

確かに、そうかも!

教科書で習っただけでなく、スタジオジブリの映画『平成狸合戦ぽんぽこ』でもそのワンシーンが再現されていて、多くの人が知る源平合戦の英雄です。

那須与一の生涯は伝説に彩られていて、『吾妻鏡』や貴族の日記などには登場しません。つまり、実在したかはあやふやな人物です。

実在したかどうかは、謎なんですね~

しかし現在でも地元の人々から愛されていることには変わりありません。そんな那須与一を有名にした、『平家物語』のひと幕、『那須与一』を読んでみましょう。

背景

西へ西へと追いやられた平家は、阿波(あわ)国(現・徳島県)にある屋島(やしま)に拠点を置きました。そこに源義経が攻撃をしかけます。平家側はみな舟に乗って、海上から鎌倉軍がいる浜に向かって矢を放ちました。

思いのほか兵を集められなかった義経軍は苦戦し、日も暮れかけています。そこで一時退却し、翌日明るくなってから戦を再開しようとしました。

すると平家側から豪華に飾られた舟が1艘、近づいてきました。その舟では18~19歳ぐらいの美女が扇を開いて立てかけ、手招きしています。

この、美女が手招きする場面、時代劇とかで見ますね!挑発してるってこと?

義経は後藤実基(ごとう さねもと)という武士を呼んで「あれはどういう事だと思う?」と尋ねました。後藤は「この扇を射ってみよ、という事だと思います。ただ、義経殿自らが射ろうと近づけば、矢を放たれてしまいましょう。ここは他の者にやらせるのがよろしいかと」と答えました。

さて、誰にやらせよう

そこで義経は「やれる者はいるのか?」と尋ねました。後藤さんは「矢が上手い者はいくらでもおりますが、その中でも下野国の住人、那須与一が腕利きです」と答えます。

「証拠はあるのか?」

「飛んでる鳥を、3羽のうち2羽を落としてました」

「ならば呼べぃ!」

というわけで、那須与一を呼び寄せました。

ええっ!飛んでる鳥を?凄腕すぎ!

那須与一ってどんな人?

那須与一は当時20歳ぐらいの小柄な若者で、まだ武功をあげていませんでした。ですから大将の義経の前で緊張し、かしこまっています。

そんな与一さんに義経は「おい、あの扇の真ん中を射抜くところを、平家たちに見せてやれ!」と言いました。

「私は上手くできるかわかりません。失敗したら鎌倉武士として後世までの恥となりましょう。確実に成功する方に命じてください」

と、謙虚に辞退しようとしたところ、義経は激怒して「はぁ? オレに逆らうの? オレ大将だよ? オレの言う事にあれこれ言うならさっさと帰れば?」と言い放ちます。現代だったら軽くコンプライアンス違反ですね!

与一さんは恐縮してしまい「失敗するとも言い切れませんので、やってみます」と言って、弓を持ち馬に乗って浪打際まで行きました。やりとりを見ていた他の武士たちも「あの若者はきっと成功しますよ」と義経さんをなだめました。ぷ……プレッシャー!

与一、大ピンチ!パワハラ上司に逆らえない、悲哀を感じます。

がんばれ、那須与一!

さて、ここからが教科書にも載っている部分です。

頃は二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯打つ波も高かりけり。

舟は、揺り上げ揺りすゑ(え)漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。

時は2月18日……といっても当時は太陰太陽暦ですので、現在の暦に直すと3月下旬です。当時の暦は大雑把に「1月~3月は春」「4月~6月は夏」「7月~9月は秋」「10月~12月は冬」と覚えておくと便利です。酉の刻は日没頃をさす時間帯です。

ようやく温かくなってきた頃とは言え、激しく北風が吹いて波が高いです。場所は北向きの海岸なので、思いっきり向かい風で、沖の船も激しく上下に揺れていて、扇も安定せずに、ひらひらとひらめいています。 ……え? これ当てられる??

『屋島の戦い、平家物語から(平家物語)』メトロポリタン美術館より

沖には平家、舟を一面に並べて見物す。

陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。

いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。

与一目をふさいで、

「南無八幡大菩薩(なむ はちまん だいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光の権現(ごんげん)、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜん だいみょうじん、)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな」

と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。

与一、鏑(かぶら)を取つてつがひ、よつ引(ぴ)いてひやう(ひょう)ど放つ。

沖には平家の舟が並んでいて、陸では源氏が馬の轡(くつわ)を並べて見守っています。那須与一はどちらを見ても気分が晴れませんでした。

そこで目を瞑り、心の中で祈りを捧げます。そして再び目を開けると、風が少し弱まって、扇も狙いやすくなっていました。

与一は鏑矢を取って番え、うんと引き絞って、ヒョウっと放ちました。

小兵(こひょう)といふぢやう(いうじょう)、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)際(ぎわ)一寸ばかりおいて、ひいふつ(ヒイフッ)とぞ射切つ(きっ)たる。

与一は小柄といえども、十二束三伏(約88.5cm)の大きな矢を放つ強弓(つよゆみ)の兵です。鏑矢は浦に響き渡るほど長く鳴り、誤りなく扇の要の際から一寸(約3㎝)ほど上をヒイフッと射切りました!

個人的なことですが、この部分! 私めっちゃ好きです! リズミカルで!

鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。

しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつ(サッ)とぞ散つたり(ちったり)ける。

夕日のかかやいたるに、みな紅(ぐれない)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ(ただよい)、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船端(ふなばた)をたたいて感じたり、陸には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。

鏑矢は海へ落ち、扇は空へと舞い上がりました。しばらく虚空にひらひらとひらめいていたけれど、春風に揉まれて海へサッと散りました。

夕日が輝いている中に、金色の日輪を描いた皆紅の扇が白波の上を漂い、浮き沈みしながらゆらゆら揺れています。沖の平家は舟の端を叩いて感激し、陸の源氏たちは箙(矢を納めて腰に下げる道具)を叩いてどよめきました。

やったぜ、与一!大成功!オリンピックなら、金メダル級!

見事大成功! ……の、その後で

あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男(をのこ)の、黒革をどしの鎧着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持つたるが、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。

伊勢三郎義盛(いせの さぶろう よしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄って、

「御定(こじょう)ぞ、つかまつれ」

と言ひければ、今度は中差(なかざし)取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつ(ヒョウフッ)と射て、舟底へ逆さまに射倒す。

平家の方(かた)には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。

「あ、射たり」と言ふ人もあり、また、「情けなし」と言ふ者もあり。

あまりの面白さに感情を抑えることができなかったのか、船の中から50歳くらいの男が出て来て舞い出しました。義経の郎党、伊勢三郎義盛は与一さんの後ろへ馬でやって来て「義経様のご命令だぞ、あいつを射れ」と伝えて来ました。

与一さんはまた矢を番えてよく引きました。船上で踊っていた男は首の骨をヒョウフッと射られて、船底へと真っ逆さまに落ちてしまいました。

ええっ!嘘でしょ?

うわっ、弓で首が……。スタジオジブリの映画『もののけ姫』でもそんなシーン出て来ましたね! っていうかスタジオジブリ、相当那須与一好きですね!

平家方は静まりかえってしまい音がしませんが、源氏方はまた箙を叩いて大騒ぎしました。これには「ああ、よく射ったものだ」と言う者もいれば、「情け容赦もない」と言う人もいました。

雅な平家と野蛮な源氏

実際に屋島の戦いで扇の的当てがあったかは定かではありません。しかし那須与一のような素晴らしい弓の技術は、戦場では人を殺めるために使われるのは事実でしょう。

那須与一は大将の命令に従っただけですし、いくら盛り上がったとはいえここは戦場なのだという意識が平家方に欠けていたという見方もできます。しかし、一方でせっかく敵ながらアッパレと素晴らしい技術を褒めてくれた人を殺すなんて……という気持ちも理解できます。

戦場の非情さ、そこに身を投じる人々の命の儚さの「あはれ」が表れているシーンです。

確かに、褒め称えて終りとならないのが、戦なんですね。哀しい。

アイキャッチ画像:『引札類 那須与一』出典: ColBase

新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想

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神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。