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2019.08.30

京都「河井寛次郎記念館」は生活道具好きにはたまらない場所だった!

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大正15(1926)年に提唱された“民藝運動”で、思想家の柳宗悦、陶芸家の濱田庄司とともに活躍した陶工、河井寬次郎(かわいかんじろう)。記念館を訪れると、日常の生活道具に美を見出したこの運動の根底に触れた気がするはずです。なぜなら、40年以上ここで作陶し、木を削り、文章を書き、そして家族と食事をして友と語らった、寬次郎の生活の痕跡をあちこちに見るからです。

河井寛次郎記念館とは?

河井寬次郎記念館は、大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した陶工・河井寬次郎の住まい兼仕事場を公開したものです。
建物のみならず、館内の家具や調度類も寬次郎のデザイン、あるいは蒐集によるもので、それぞれ個性を発揮しつつも、不思議な統一感を生み出しています。
京都の町中にあるにもかかわらず、当時の暮らしをそのままに感じ過ごせる静かな空間になっています。

河井寛次郎
中庭をはさんで作業場だった陶房や窯場、作品展示室なども見学できる。

河井寛次郎
なかに入ると、当時にタイムスリップしたかのよう。

河井寛次郎ってこんな人です

中学生のころから陶芸家を志していた河井寬次郎は、島根県の安来(やすぎ)から東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ進学。2学年下には濱田庄司がいて、卒業後に技師として入所した京都市立陶磁器試験場では同僚となり、一緒に釉薬の研究にはげんだそうです。
やがて、京都市五条坂に工房「鐘溪窯(しょうけいよう)」と住居を構えた河井は、初の個展で東洋古陶磁の技法を駆使した作品を発表し、技術と完成度の高さで好評を博します。しかし、河井自身は次第に自らの作陶に疑問を抱きはじめ、同時期に柳宗悦から酷評を受けたこともあって、迷いに拍車がかかったとされます。
その後、濱田がイギリスから持ち帰ったスリップウエアと呼ばれる陶器を見た河井は、日用の器に自分の進む道を見出し、疑問を解消。濱田を介して柳と出会うと、過去のわだかまりを超えて理解し合い、民藝運動へとのめり込んでいくことになります。
それから、河井の作風は一変。「用の美」を意識した、暮らしに溶け込んだ品々を数多く生み出します。
第二次世界大戦の後に作陶を再開すると、意欲作を連発。生命感にあふれた力強い器や、不思議な造形を手がけ、民藝の枠を超えた新たな美へ作風を広げます。
その芸術性は国内外で高く評価されるようになり、文化勲章や人間国宝に推挙されるも、ことごとく辞退。河井は最期まで賞や名誉に関心を示すことなく、一陶工としてやきものと向き合ったのです。

河井寛次郎
河井寛次郎。

河井寛次郎
昭和30(1955)年作の黄釉泥刷毛目碗。波打つ模様がお洒落です。

館内の様子を覗いてみましょう

餅花が下がる囲炉裏の間などは1階に。2階には書斎や居室、女性らしい佇まいを見せる妻つねの部屋などもあります。日本全国、特に飛驒高山の民家を参考に、寬次郎独自の構想をもとに80年以上前に建てられた家屋。板の間を歩き、畳に座り、障子越しのやわらかな光に日本建築のすがすがしさを感じたら、「いつかはこんな暮らしを…」と思うかもしれません。そして、草花などの飾り方ひとつでも、真似してみたくなるに違いありません。
見て楽しみ、感じて喜び、真似て面白がる。この記念館の土産は、“生活を楽しむ知恵”なのです。

河井寛次郎
左/自作の三色打薬茶碗。茶の湯の街である松江にも近い島根県安来出身の寬次郎は、気軽な茶を好んだ。 右/野良でありながら家猫のような貫禄!

河井寛次郎
左 寬次郎を家長に3世代で暮らしていたというこの自邸づくりには、大工の兄も手を貸したとか。/右 書斎に備え付けられた家具。ずっしり重厚だが、棚板にはそれぞれに物ひとつ、という軽やかさが美しい景色をつくっている。

河井寛次郎
カーテンやブラインドではこうはいかない…というディスプレイ。でも、どこかで真似したい。

●河井寛次郎記念館
住所:京都市東山区五条坂鐘鋳町569
開館時間:10:00~17:00(入館受付 16:30まで)
休館:月曜日(祝日は開館、翌日休館)
夏季休館 8/11~8/20頃
冬期休館 12/24~1/7頃
料金:
大人900円
高・大学生500円
小・中学生300円
年間パス3,000円