熱田大神(あつたのおおかみ)を主祭神として祀る熱田神宮は、伊勢の神宮に次ぐ高い格式を誇る大宮である。熱田大神とは「三種の神器」の一つ、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)とする天照大神(あまてらすおおみかみ)のこと。日本神話の主神であり太陽神として信仰されてきた天照大神が宿った草薙神剣が祀られているからこそ、昔から熱田神宮は特別な格式と強力なご利益があると考えられてきた。
日本武尊の御遺志を重んじて祀られた草薙神剣
熱田神宮の歴史は113年、日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)が草薙神剣を奉斎したことに始まる。
相殿神として祀られる神々は、主祭神である草薙神剣の出現に関わる天照大神、素盞鳴尊(すさのおのみこと)と、熱田への鎮座に関わる日本武尊、宮簀媛命、建稲種命(たけいなだねのみこと)である。
社殿はもともと尾張造と呼ばれる形式だったが、草薙神剣を祀る所以から、1893年に伊勢神宮とほぼ同様の社殿配置と規模の神明造に改築された。拝殿・本殿の屋根には伊勢神宮と同数の10本の堅魚木(かつおぎ)が載り、左右に千木(ちぎ)が高くそびえる。
奇跡的大勝のお礼に奉納した「信長塀」
ところで、熱田神宮は古くから朝廷や武将の崇敬を集めていた。源頼朝の母が大宮司の娘であったため鎌倉幕府の尊崇は篤く、その後も多くの武将が社領の寄進や刀剣類の奉納、社殿の修築などを行ってきた。
中でも織田信長の熱田神宮への思いは格別だったと言われている。信長は桶狭間出陣の折、必勝祈願を行っている。そして見事大勝したため、そのお礼として築地塀(ついじべい)を奉納した。
「信長塀」と呼ばれる重厚な築地塀は土と石灰を油で練り固め、瓦を挟んで厚く積み重ねたもの。瓦は本宮の北の地に窯を築き焼いたと言われる。
世紀の番狂わせ!桶狭間の戦い
そもそも桶狭間の戦いはどうみても信長に勝ち目のない戦だった。
今川義元との戦いは1560年5月に始まる。18日、25,000(『信長公記』は45,000とする)の大軍を率いて沓掛城に入った義元は、尾張制圧の足がかりとするための作戦をたてる。
18日夕刻、佐久間盛重と織田秀敏から「19日には鷲津と丸根を攻撃するのは必定である」との一報が清洲城の信長のもとに入るが、信長は集まった重臣たちに何の指図もせず、雑談をした後「深夜になったので帰っていいぞ」と皆を引き取らせたという。重臣たちは「運が尽きれば知恵も出なくなるというが、今の殿はまさにそのようだ」と信長の対応にあきれながら帰っていった。
19日未明、今川軍が鷲津や丸根の砦に襲いかかってきたとの知らせを聞くや、信長はにわかに起き上がり、愛誦していた幸若舞「敦盛」を舞う。
人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり
ひとたび生を享け、滅せぬもののあるべきか
そして、法螺貝を吹かせ鎧・具足を着け、立ったまま湯漬をかき込み、兜を被るとわずか6騎で清洲城を飛び出したという。午前4時頃のことだ。
ところでこのとき、一気に熱田神宮に向かったように『信長公記』には書かれているが、信長が熱田神宮に到着したのは午前8時頃。清洲城から熱田神宮までの距離は約12キロ。馬で4時間もかかる距離ではない。信長は途中、榎白山神社や日置城、日置神社、法持寺に立ち寄り、必勝祈願していたとの説がある。当時の神社・仏閣は砦の役割も果たしていたため、人集めも兼ねた参拝だったのかもしれない。
神殿の奥から鎧の触れ合う音が聞こえ、白鷺が飛び立った
19日午前8時、熱田神宮に到着した信長は家臣に「この戦いは多勢に無勢、苦しい戦いとなる。熱田大神の力を借りてぜひ勝利したい」との願文を作らせ、神前にぬかずき、集まった兵約300騎の前で願文を読み上げ、戦勝を祈願した。
すると、吉兆が現れる。神殿の奥深くから鎧の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が飛び立った。信長は「これぞ熱田の神が我々を護り、勝利に導く印だ」と兵を激励する。兵らの士気・闘志は格段に上がったことだろう。熱田神宮を出るころには2,000もの兵が集まっていたと言われる。
めざすは義元ひとりの首
信長が義元の布陣する桶狭間に近づくとにわかに天候が変わった。信長軍の背後から激しい雨が降り出したのだ。『信長公記』には「石水混じり」とあるため、ただの暴雨ではなく、霰(あられ)や雹(ひょう)だったのかもしれない。
真正面から降りつける暴雨に今川軍は慌てふためき散らばり、織田軍の接近を察知できなかったという。ついに天が信長に味方したのだ。めざすは義元ひとりの首。千載一遇の好機と信長は奇襲をかける。今川軍が右往左往する中、信長の近臣、毛利新助が義元の首級を挙げる。わずか2,000の信長が25,000の義元を破った、まさに日本の歴史が変わった瞬間だった。
国家鎮護の神宮として全国の崇敬と信仰を集める
敷地には、信長塀以外にも多くの歴史的名所がある。
参道の西側にある「二十五丁橋」は名古屋最古の石橋である。板石が25枚並んでいるのがその名の由来で、優雅な姿をたたえるこの橋には歌人でもあった西行法師が
かくばかり 木陰すずしき宮立ちを 誰が熱たと名づけ初めけむ
(こんなに涼しいこの宮を誰が熱田と名付けたのだろうか)
と詠んだとの伝承がある。
また、生い茂る木々の間から優しい光がこぼれる参道を歩くと、楠の大木に目が留まる。
境内には楠の大木が何本もあるが、中でも手水舎の北側にある大楠は弘法大師のお手植えと言われ、樹齢は1000年を超える。空を覆い尽くさんばかりに枝を伸ばす姿は威厳をたたえ、その圧倒的な生命力に心打たれるだろう。
飛び地境内を併せると9万坪にも及ぶ広大なお宮には本宮、別宮をはじめ45の社が鎮まる。国家鎮護の神宮として全国の人々から崇敬と信仰を集め、参拝者は年間700万人を超える。
1900年もの歳月を重ねた境内には静寂が満ち、参道を歩く足音さえ厳かに聞こえるだろう。壮大な歴史を体感できる熱田神宮、ぜひ訪れてほしい。
熱田神宮
公式サイト https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/
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