その昔、バイクは「男だけの乗り物」だった。
しかしバイクが人体に合わせて設計された代物である以上、そこに性差はないはずだ。そしてそれを証明した堀ひろ子というライダーが、かつて存在した。
日本で初めてロードレースに参戦した女性ライダーとして、そしてサハラ砂漠をバイクで縦断した冒険家として、堀は大いに名を馳せた。それはバイクが「誰でも楽しめる乗り物」になった瞬間でもあった。
女子選手はレースに出場できなかった時代
今から40年前、日本二輪車業界を動揺させた「HY戦争」が勃発した。
これは50ccクラスの二輪車の開発競争、というよりもダンピング競争である。きっかけは1976年にホンダが市場投入した『ロードパル』に対し、ヤマハが対抗馬として『パッソル』をぶつけたことだった。この両製品は、ともに主婦層をターゲットにしたものだ。
70年代後半、モーター産業はそれまで殆ど開拓されていなかった女性層を意識した製品を開発するようになった。これは二輪だけでなく四輪でも同じ現象が発生している。1979年にスズキが発売した軽自動車『アルト』は、女性をメインターゲットにしていた。そのために当時社長に就任して間もなかった鈴木修は、スズキと契約する販売店に対してトイレの改修を指示した。汚いトイレでは女性客が来ないからだ。
こうして徐々に自前のクルマを所有する女性は増えていったが、それでも大排気量の車種は「男のもの」だった。同じ76年発売のホンダのマシンでも、ロードパルとCB400FOURはまったくの別物。後者は男にしか乗れない……と多くの人が考えていた時代があったのだ。
それは、二輪車レースのレギュレーションにも現れていた。出場可能選手はあくまでも「規定年齢を満たした健康な男子」のみ。女性ライダーは出場者登録書すらもらえなかった。
レーサーとして、冒険家として
1976年、堀ひろ子はMFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)公認のロードレースに「特例選手」として出場した。
「特例」とは、もちろん堀が女性であるからだ。しかもこれは堀が協会に掛け合い、ようやく叶った出場である。つまりこの時点で、まだレギュレーションは改定されていなかったということだ。
しかし堀がレースで着実な成績を収めるようになると、このレギュレーションは有名無実の項目と化した。これは77年限りで改定され、さらに78年には女子選手限定のロードレースまで開催されるようになった。レギュレーション改定を熱望していたのは堀だけではなかった、ということでもある。さらに、堀は冒険家でもあった。
1982年4月、堀は前年の鈴鹿4時間耐久レースのパートナーだった今里峰子と共に、サハラ砂漠縦断ツーリングを実行する。フランスのパリから南下して地中海を船で渡り、アルジェの首都アルジェから一気に南下してコートジボワールのアビジャンまで行く道程だ。
地図にできない地域を走る
この壮大な旅のルートを、Google Mapで調べてみると以下の通りになった。アルジェからアビジャンまでの距離は4,940km。クルマで行けば82時間で目的地に着く。が、この検索結果はトラブルや国境での手続き、人間の体力、治安等をまったく考慮していない理想論だ。実際は遥かに長い日時を必要とする上、そもそも1982年では携帯電話もGPS装置もない。
厳密に言えば、GPSは既に存在した。が、それが民間に開放されるのはまだまだ先の話。つまり、堀と今里がサハラ砂漠で遭難したら助けようがないということだ。ついでに言えば、2人は実際にそうなりかけた。
筆者の手元に、堀が執筆した『サハラとわたしとオートバイ』(大和書房・講談社文庫)という本がある。冒険の様子はこれに詳しく書かれているが、特に興味深いと感じたのは「ミシュランNo153」の話である。
ロングツーリングというのは、インターネットがある現代でも紙の地図が必須。Google Mapよりも細かい情報が書かれているし、何よりスマホの電池切れで地図を閲覧できないという事態は発生しない。だからこそ、堀は旅の前にミシュランの地図を手に入れようとした。
ところが、肝心のサハラ砂漠の部分に該当するNo.153が売られていない。なぜか?
アフリカほど悲惨な歴史を持つ大陸はないだろう。ヨーロッパ人による略奪と破壊、そして奴隷商人による人身売買、奴隷狩りでの死者は一億人にものぼるという。
しかも自分たちの国土はヨーロッパの国々によって一方的に分割され、植民地化されていった。部族も文化もすべて無視され、地図上にむやみに境界線が引かれた。
その後独立した国々の間で、国境線を問題とした紛争が各地で起こり、今なお緊迫している状況がつづいている。
(堀ひろ子『サハラとわたしとオートバイ』大和書房・講談社文庫)
堀は容赦なくそう書いているが、これは否定しようのない史実。そして直線的な国境線を巡って隣国同士の紛争が勃発し、同時に両国の大使館がミシュランを始めとする地図発行会社に抗議した。「この国境線は間違っている。ここは我が国の領土だ。一刻も早い改定を望む」と。そのような経緯で、ミシュランNo.153は絶版になっていた。しかし堀はイギリスの友人に頼み、何とかこの地図を入手する。
伴走車はジムニー
が、地図だけではツーリングに行くことはできない。堀と今里の乗るバイク、それに伴走する四輪車、そしてスポンサーも探さなければならない。
これらを全て詳細に書くと紙が足りなくなってしまうから、ここでは伴走の車両についてだけ説明したい。アルジェからアビジャンまでの約5,000kmのうち、サハラ砂漠は約1,500km。それまでの水と食料、そしてガソリンを満載して荒れ野を移動できる四輪車を用意しなければならなかった。コンビニやガソリンスタンドなどに期待してはいけない。
スズキから提供されたのは、何とジムニーだった。国外輸出用の1,000ccモデルを手配できることになったのだ。が、ジムニーは4輪駆動とはいえ小型車だ。これで果たしてサハラ砂漠を縦断できるのか……という不安は当然あっただろう。
ただし、ジムニーは「あらゆる地形を走破できる小型オフロード車」として、国内外での評価が極めて高い車両だ。堀と今里の伴走を務めたジムニーは、大量の物資を積んだ状態で見事サハラ砂漠を縦断してしまったのだ。このあたりについてはもっと深堀りしたいが、それはまた別の機会に。
その時代に堀ひろ子がいた!
『サハラとわたしとオートバイ』に書かれているロングツーリングは、「女子旅」とは程遠い内容である。
遭難、転倒事故、過酷な自然環境、国境での賄賂要求……。それは性別関係なく、人一倍強靭な精神がなければ挫折してしまうような冒険だった。だが、この挑戦は女性ライダーの社会的地位向上に大きく影響するものだったということは言うまでもないだろう。
それは「男の乗り物」が「普遍的なアドベンチャーマシン」に進化した瞬間でもある。
1985年に急逝した堀ひろ子は、類稀なライディング技術と情熱、そして勇気で新しい時代を切り開いたのだ。
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『オートバイのある風景』(サラ・ブックス)新書 著者:堀ひろ子
【参考】
サハラとわたしとオートバイ(堀ひろ子 大和書房・講談社文庫)
バイク界の逸話(船山理 モーターマガジン社)
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