Culture
2021.05.30

ライダーたちの心を燃やす!命がけの荒野を走破し続けた「ミスター・ヤマハ」ジャン・クロード・オリビエ

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新発売のバイクがある。これはオフローダーで、舗装されていない地形を走ることができる。

このバイクを、これから売らなければならない。が、当然ながら競合他社も同じようなバイクを発売している。営業活動は決して楽なものではないだろう。

そんな時、会社の誰かがこう言い出した。

「なら、私がこのバイクに乗って競技会に出よう。1位になれば、きっと売れるはずだ!」

それを聞いた他の社員は、もしかしたら制止するかもしれない。「おいおい、そいつはクレイジーだぜ!」と。

ヤマハ・モーター・フランスの社長を務め、2013年に不慮の事故でこの世を去ったジャン・クロード・オリビエは、バイクを売るためなら命がけのラリーにも参戦する闘将として知られていた。偉大な「JCO」の名は、今もライダーたちの心に熱い炎をたぎらせている。

ヤマハのバイクを売った営業マン

モーター産業に限らない話だが、モノを海外に輸出して販売するためには「インポーター」の役割が欠かせない。

要は現地の輸入業者で、たとえばフランス産のワインを大量に仕入れて日本で小売販売する業者はまさにインポーターである。JCOは、ポルシェや三菱、そしてヤマハのマシンをフランスで販売するソノートという会社の社員だった。

が、JCOのソノート入社は1966年。この時代、ヨーロッパで「YAMAHA」というメーカー名を知っている一般人は少なかった。そんな中で、JCOはヤマハの二輪車のセールスを担当することになる。

1968年にヤマハがDT-1というオフロード向けのマシンを発売すると、JCOは早速DT-1に跨ってモトクロスや24時間耐久レースに参加した。これはレーサーとしての参加である。DT-1を売るために、自らが競技者になったのだ。

彼はデモバイクをトラックに積んで販売店を開拓。「F1ではなくヤマハのドライバーになった」と言っているように、走ってみせる事も重要なプロモーションだった。68年のDT-1(ヤマハ初の本格的オフロードモデル)の販売も追い風となり、倍々ゲームで売り上げを増やしていく。ポイントのひとつは、市販モデルによるレース参加だった。

(『RACERS Vol.43』三栄書房)

何でも自分でやってみなければ気が済まず、会議が煮詰まったらみんなでツーリングに出かけ、体力維持を理由にエスカレーターやエレベーターを絶対に使わない男。それがJCOなのだ。

パリ・ダカールラリーに自ら参戦

そんな彼にとって、パリ・ダカールラリーはもはやライフワークでもあった。

第1回パリ・ダカールラリーのスタートは1978年12月。この時代、既にヤマハはXT500という優れたオフロードマシンを開発していた。アメリカでは改造次第でモトクロスにもエンデューロにも使えるバイクとして一世を風靡していたが、JCOはこれをパリ・ダカールラリーで走らせようと考えた。

編成されたソノート・ヤマハチームのライダーは4名。無論、JCOもその中に入っている。なお、この時代のJCOはヤマハの重役どころか、インポーター企業の一営業社員に過ぎない。にもかかわらず、ヤマハ本社を熱心に説得して出場に至ったのだ。

このラリーでのソノート・ヤマハチームの最高順位は2位。が、それはJCOではない。彼は途中でコースを誤り、ガス欠を起こしてしまった。ここがフランス国内であればガソリンスタンドまでマシンを押せばいいが、アフリカの荒野にそんな便利なものはない。

では、どうしたか? 何とJCOは、近くにあった日系企業の石油プラントからガソリンを拝借したのだ。

ところが、その後のJCOは転倒して骨折し、やむなくリタイア。彼の強烈なガッツは、残念ながらここでは及ばなかった。

Ténéréで掴んだ栄光

もちろん、JCOはその程度のことで闘争心を萎えさせるような男ではない。

XT500の大活躍を見届けたJCOだったが、これはオフロードマシン開発競争の幕開けでもあった。XT500の旧式化は、その後僅か数年で顕著になってしまう。ラリーで勝つためのスーパーマシンを開発しなければならない。

このような経緯でJCOが開発に関わったのが「Ténéré(テネレ)」シリーズである。

1985年の第7回パリ・ダカールラリーで、JCOはXT600 Ténéréに跨った。この時のラリーのルート総距離は約1万4,000kmである。JCOは果てしないTénéré——トゥアレグ語で「何もない場所」の意——を疾走し、二輪車部門1位のライダーと僅差の2位に輝いたのだ。

男の伝説はいつまでも

ソノートの役員、そしてヤマハ・モーター・フランスの社長にも就任したJCOは、しかしオフィスの椅子の上では満足できない男であり続けた。

このような好漢が実在したのだ。

戦後日本の高度経済成長を説明する上で、筆者がよく引き合いに出すのは映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』である。この映画には、数多くの日系メーカーの製品が登場する。バイク、時計、ドラム、ビデオカメラ、ピックアップトラック、要所要所で日本の製品が現れる。しかし主人公マーティ・マクフライがタイムスリップした先の1955年には、まだアメリカにメイド・イン・ジャパンは殆ど存在しなかった。

この30年間に日系メーカーは各分野でシェアを拡大したわけだが、それは「勝手にそうなった」わけではもちろんない。製品を作る者、そしてその製品を売る者が身体を張ったからこその成果である。

そして男は、永遠に語り継がれる伝説となった。

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【参考】
『RACERS Vol.43(三栄書房)』
もうひとつの記号“テネレ”-ヤマハ発動機