前編:食べることが修行?SHIHOが見つけた「食」と「欲望」の関係【SHIHOの楽禅ライフ19】
咀嚼を意識すれば食事は変わる
横山 40歳を前に、自ら食事を今のように変えたとき、苦しく感じたことはありましたか?
SHIHO いえいえ、食べる量は変わらないですし、大変だと感じたことはありませんでした。それよりも、食べ物に対する向き合い方を変えた感じですね。むしろ「野菜本来が持つ味わいが、おいしい!」と味の深みに気づくと、食事がより楽しくなりました。ストイックに「〜しなければいけない」と考えたことはあまりなくて。
律するという言葉には「高める」という意味も含まれているらしくて、「制限する」というよりもより健康的で良いマインドになるように食べ物を選択するようになりました。
横山 素晴らしいですね。まさにマインドフルネスですね。SHIHOさんがおっしゃるような態度で食事に向き合うと、自分の脳が食べ物に対してすごく慎重に働き始めるんです。一口ずつよく噛むようになるし、食べ物を選ぶ際にも同じです。
この考え方は食事だけでなく、他の日常生活にも援用できるんですね。ベトナムの禅僧でティク・ナット・ハン(※)という方が提唱されていましたが、ただ歩いているのか、「歩く」ということを意識して歩くのかには、大きな違いがあります。自分が行っていることを頭の中で意識しながら行動することが大切だと説かれていました。そうしたことが、ある意味で「癖」になると、その人の考え方、生き方、さらには人生が変わっていきますよね。
※ティク・ナット・ハン(Thích Nhất Hạnh/1926 – 2022):ベトナム出身の禅僧、平和・人権運動家、学者、詩人。平和活動に従事し、「行動する仏教」または「社会参画仏教(Engaged Buddhism)」を提唱した。アメリカとフランスを中心に、仏教及びマインドフルネスの普及活動を行なった。

SHIHO 横山さんはどのようなものを召し上がっているのですか。
横山 私は実はパンが大好きだったんです。永平寺での修行中はパンは出てきませんし、修行が終わって自分のお寺に帰った後は、毎朝パンを食べていたんです。ただ、それを続けているうちに、体が重く体調も変わってしまったように感じました。
そうしたときに、「16時間断食」というのを始めました。夕飯を早めに頂いて、それから16時間空けて食事を頂く。そうすると再び食事を丁寧に食べられるようになり、体も整うようになった感覚がありました。(※編集部注:効果には個人差があります。)
SHIHO 最近特に実践する人が増えていますよね。私の事務所のスタッフも実践しています。
横山 どうしても早めに朝食を食べる必要がある日もあるので、必ずというわけではありませんが、それでもそういうときには朝食はヨーグルトなどにしていますね。
SHIHO 私も朝はとにかく水分を摂るということを大切にして、いきなり固形物をガツガツ食べないようにしています。
横山 いずれにせよ、やはり咀嚼(そしゃく)を意識するということ。それだけで食べる量はかなり変わります。
「料理と心配りは同じ」
編集部 食べるということ以外に、料理についてはお二人はどのようにお考えですか?
横山 禅の教えの中で料理は非常に重要な部分で、禅宗のお寺の中で料理を司る人は非常に高い位置づけにあります。料理を司る僧を「典座(てんぞ)」と呼び、高僧でないと務まらないとされています。
道元禅師は典座を務める人の教訓を「典座教訓」という書物にまとめておられます。その中では、どのような心構えで料理に望むべきか、どう食材に向き合うかなどが非常に細かく書かれています。

よくお寺で出される料理を「精進料理」と呼びますが、「精」は米が青いと書きます。よく精米されたお米は青白く透き通って見えますが、それを米搗きの作業でするのは大変手間がかかることでした。ゆえに、「精」の字には「手間ひまをかける」「こまやかに」「まざりものがない」というような意味があります。。
つまり「精進料理」とは真心を進めてつくられた料理という意味なのです。
SHIHO そんな意味があったんですね。
横山 お肉やお魚が含まれていない料理と解釈されがちなのですが、手間暇かけて心がこもった料理なら、どれもが「精進料理」だと言えるんです。
SHIHO 知りませんでした。野菜だけのお料理なのかと思っていました。
横山 典座教訓のおもしろいところは、料理に関する教訓でありながら、すべてのことに通じる教えがたくさんあるところです。たとえば、脱穀機がなかった昔は収穫した玄米を脱穀する際、ゴザの上で作業をすると小石と米が混じってしまったのだそうです。道元禅師はその作業のときの心得として「お米を選り分けながら、小石を見なさい。小石を選り分けながらもお米を見なさい」と書かれているんです。
SHIHO むずかしそうですね。
横山 小石ばかりに目がいくと、間違ってお米を拾ってしまう。かといってお米ばかりを見ていてもいけない。これは人に対する「心配り」にも言えることですよね。ある人に心を配りながら、同時に他の人にも心を向けている。そのようなあり方を説いているとも言えます。
SHIHO なるほど、勉強になります。
【続きます】

