自分を俯瞰すること
——今回のテーマは「言葉と禅」です。悟りそのものは本来、言葉では言い表せない世界である一方で、言葉は人間をかたちづくるうえで重要な役割を担っています。そのギャップを、禅の世界ではどう見ているのでしょうか。そして、たくさんの著作を残した道元禅師は、沈黙の修行と膨大な言葉とをどう結びつけていたのでしょうか。
他方、SHIHOさんはモデルという“言葉を使わない表現”をお仕事にされているとともに、普段から「どんな言葉を自分にかけるか」「人にどんな言葉をかけるか」を大切にされている印象があります。
SHIHO テーマを聞いて最初に浮かんだのは「言霊(ことだま)」という言葉です。私は口にしたことが、本当にその通りになっていく感覚があるんです。正直、ちょっと怖いくらい(笑)。無意識にポロッと言ったことが、後になって現実になっていて、「あ、あのとき自分がそう言ってたよな」と気づくことがよくあるんです。
人に向けて発した言葉って、結局いつか自分に返ってくるものでもありますよね。人は鏡だから、誰かの悪口でも褒め言葉でも、その人の中にある要素が言葉になって出ているだけなんだろうな、と。そう考えると、軽くしゃべったつもりのひと言が、後からすごく重く感じられて、「ああ、あんなふうに言わなきゃよかった…」って落ち込むことも多いです。

横山 SHIHOさんの言葉が現実になりやすいのは、その言葉を向けている相手が、SHIHOさんにとって大切な存在だからでしょうね。思いのこもった言葉ほど強い言霊になるのだと思います。逆に、ほとんど関心のない相手に向けて言ったひと言は、それほど形になっていかないことが多い。そこには、はっきりとした差がある気がします。
禅の教えの中に「随縁赴感(ずいえんふかん)」という言葉があります。「縁に随(したが)い感に赴く」。ご縁があって誰かと向き合ったとき、その場で自分の中に立ち上がってくる感情や気配に従って、自然に言葉が生まれてくる。頭で損得を計算したり、忖度で選んだりするのではなく、「今ここ」の縁から立ち上がる言葉に任せてみる。そうやって出てきた言葉には、たしかに言霊のような力が宿るんだと思います。
SHIHO とはいえ、私は思ったことをすぐ口にしてしまうタイプで…。お世辞が言えないというか、この前も外出先で私がポロッと言った言葉に対して、娘に注意されたことがありました。意味もなくポロッと出てしまうような無意識の部分こそ、実は一番気をつけなきゃいけないんだろうなと、最近よく感じています。
横山 道元禅師の教えに「同事(どうじ)」というものがあります。「自にも不違なり、他にも不違なり」。つまり自分は自分自身と違ってはいけないし、他人に対しても違ってはいけない。悲しんでいる人には共に悲しみ、喜んでいる人には共に喜ぶ。
でも人間って複雑なので、本当はあまり好きではない相手でも、場の空気に合わせて笑顔で祝ったりしてしまう。そうなると、自分の心と口から出る言葉が一致していない状態になりますよね。道元禅師は「自分にも他人にも異ならないように」と説きます。表面の言葉と内側の気持ちが食い違っていないかを考え続けること。それが「同事」を生きる修行でもあるんです。
【続きます】

