形態の魔術師「俵屋宗達」
こちらの不思議な魅力に満ちた絵をご覧ください。その名を「白象図(はくぞうず)」といいます。京都は三十三間堂の東側、あの淀君(よどぎみ)ゆかりの養源院(ようげんいん)の杉戸一面に描かれた斬新な絵です。
どうです、とてつもなく大きくはち切れんばかりの巨体を誇る象が、まるでそこにいるかのように感じられませんか?そしてそこから、絵の造形や迫力の素晴らしさもさることながら、作者の天真爛漫さ、というものを感じはしないでしょうか。
俵屋宗達「白象図」重要文化財 養源院蔵
その作者の名は俵屋宗達(たわらやそうたつ)。今なお謎多き男です。生まれも没年も不詳です。わかっているのは、彼が京都の俵屋という屋号を名乗る上層町衆の出であったということ、そして1620年代の半ばに朝廷から、絵師にとっては最高の栄誉「法橋(ほっきょう)」の位を授かったということくらい…。今もその実像は、魔術にかけられた青龍のごとく霧の中、なのです。
実は職人だった!
俵屋とは、室町時代にもてはやされた、歌や詩を書くための紙を美しく装飾したいわゆる料紙(りょうし)装飾や、扇面などの絵を専門に描く、絵師というよりは職人と呼ぶほうがふさわしい人々の集団でした。
そんな家に生まれ育ち、自然に料紙職人としての道を歩み始めた俵屋宗達が、あるときひょっこりと歴史上に名を記す重要な出来事に遭遇します。
慶長7(1602)年に安芸(あき)の大名・福島正則が行った「平家納経(へいけのうきょう)」の修復作業がそれです。宗達はその腕をかわれ、12世紀半ばに平清盛ら平氏の一門が、厳島神社に奉納した法華経(ほけきょう)の経文の表紙絵などの修復を任されたのです。
こうした重要な作品の修復を依頼されるということは、宗達がすでにその実力を相当認められていたという証拠でもあります。このとき、宗達は後の自身の作品にも色濃く影響を及ぼすことになる、平家納経に施された過剰なまでの装飾の素晴らしさにすっかりとつかれてしまったといわれています。
そしてもうひとつ、宗達の前半生にとって欠かすことができない出来事があります。それは、この類い稀な才能をもった職人・俵屋宗達を、広く世の中に紹介することにもなった人物、京都の名門、本阿弥(ほんあみ)家出身の芸術家・本阿弥光悦(こうえつ)との出会いです。
このことが、後の絵師としての宗達の生涯にどれほど大きな影響を及ぼしたことか。それは、この杉戸絵以降に描かれる数々の傑作が静かに物語ってくれるのです。
俵屋宗達「蔦細道図屏風(左隻)」萬野美術館蔵