豊臣秀吉所用と伝わる品
東京都は文京区本郷、国語学者・金田一京助やつい先日まで五千円札の肖像画でも親しまれた作家・樋口一葉の旧宅のすぐそばに、鐙坂(あぶみざか)という細い坂道がある。閑静な住宅街をゆるく曲がりながら登る坂で、その地名は「鐙を作る人々の子孫が近くに住んでいたから」とも「坂の形が鐙に似ているから」とも言われている。
鐙——とは今日でも馬術をする人にはお馴染みで、馬の鞍の両脇から左右に吊るされ、馬上の人が足を乗せてバランスを取る道具。馬の腹を蹴ったり、締めたりして、馬を制動する時にも使われる。
今日では競馬場ぐらいでしかお目にかかれなくなってしまったが、近代以前の日本では馬は生活に密着した家畜だった。街道沿いでは旅客や荷物を運び、田畑では農具を動かす。そして都市部では騎乗を許された武家階級の人々を運んだ馬たちは、豪奢な馬具に身を固め、乗り手の権威を彩る役割をも果たした。
現在、重要文化財に指定されている「芦穂蒔絵鞍・鐙(あしほまきえくら・あぶみ)」は桃山時代に作られ、黒漆塗の鞍と鐙に葦の穂を金蒔絵で力強く描いた揃いの馬具。鐙の裏側、足を置く場所には朱漆が塗られ、表の黒漆塗との対比が鮮やかだ。
芦の葉のところどころには銀の鋲が打たれているが、これは葉にかかる露を表しているらしい。一見、地味な葦の葉を見事に図様化し、桃山時代という豪壮な時代の空気を濃く湛えた馬具である。

馬具が今に伝わる奇跡
一説にこの馬具は豊臣秀吉が使ったと伝えられているが、それを証するかのように、秀吉のもとで絵筆を揮った時期もある安土・桃山時代の代表的画人・狩野永徳の下絵が現存している。そこには天正五年(一五七七)との添え書きも記されており、実用品である馬具の制作年代が分かる大変貴重な作品だ。
馬具の多くは本来、戦に赴く武士が使っていた。ゆえに戦が多い江戸時代以前の品は、持ち主が負傷・死亡したりするように、破損の憂き目に遭いやすく、そもそも今日まで無事で残っていること自体が貴重な道理。その上、作られた歳月が判明する品となれば更に限られてくるわけだが、その点で注目したいのは、現在、兵庫県の神戸市立博物館に所蔵されている「蒔絵南蛮人文鞍」だ。
残念ながら鐙は伝わっていないものの、その名称の通り、鞍のそこここに南蛮人と従者の姿を蒔絵した、なかなかユニークな作品だ。ふわっと広がった南蛮人の服装やよっこいしょとの声が聞こえてきそうな座り姿など、彼らを鞍に描こうとした大胆な発想も興味深い。
鞍の一部には、黒漆で「慶長九 七月 吉日 於越州北庄」「井関造之」と、この鞍が作られた年月と場所、更に製作者の名前まで記されている。慶長九年とは西暦一六〇四年、越州北庄とは現在の福井県福井市あたり。また井関とは現在の滋賀県で鞍を作っていた一族である。そういった地域に暮らした彼らが、生活の中でしょっちゅう南蛮人に接していたとは思い難い。だとすれば、この紋様は依頼人のオーダーによるものなのか、それとも作者である井関がどこかで南蛮人の姿を目にした時の印象をこの鞍に投影したのだろうか。日本的な蒔絵馬具と南蛮人という珍しい組み合わせに、ついつい想像が膨らんでしまう。
この鞍はもともとは、南蛮美術コレクターとして名高く、歴史の教科書にもしばしば登場する「フランシスコ・ザビエル像」や会津若松・鶴ヶ城に旧蔵されていたことでも知られる「秦西王侯騎馬図屏風」など、著名な南蛮美術を多く収集した池長孟(いけながはじめ)のコレクションの一つ。そして池長以前には、山村耕花がこの鞍を所蔵していたことが明らかになっている。
今日の我々の装いは——
山村耕花は明治生まれの日本画家。東京芸術学校日本画科を卒業し、日本美術院の同人となる一方、役者絵の新版画を多く手掛けた。日本画の基礎を踏まえながらも、デザイン性が高く、モダンさすら感じさせる作品を描いた人物である。
そんな彼の作品の中に、「蟲譜鞍」という一風変わった一枚がある。リンドウや萩といった草々の中に埋もれる黒漆塗の鞍が描かれ、鞍の前輪には蟷螂や鈴虫、松虫といった虫が蒔絵で描かれた体で散らされている。瑞々しい植物と、描かれた虫たちという対比が硬質な鞍を挟んで向き合っている。
山村は演劇の舞台芸術に関わったり、浮世絵や骨董類の蒐集にも熱心だったりと多彩な活躍をしており、前述の「蒔絵南蛮人鞍」を始めとする所蔵品は、幾度も東京帝室博物館(現・東京国立博物館)に陳列されもしている。
彼と同時代を生きた画人の中には、骨董に関心を持った人物が多く、彼らのほとんどは収集した品々を自らの絵に生かしたり、古い時代の風俗の参考に用いている。それだけに山村の「蟲譜鞍」にもまた、彼の手元にあった「蒔絵南蛮人鞍」の存在が強く反映されているのは間違いなかろうが、馬上の誰かを彩るべく作られた鞍を間に、十七世紀初頭の工人と二十世紀初頭の画家が向かい合い、その結果、生まれた絵を二十一世紀の我々が見ることができるというのは実に面白い。
美しい装いは長い時代を経てもなお、さまざまな形となって息づき続ける。ならば今日の我々の装いは——と改めて考えずにはいられない。

