江戸時代中期に活躍した絵師であり、円山応挙(まるやまおうきょ)の高弟であった長沢芦雪。師匠・応挙から離れ、無量寺の「虎図」を描き、同時代の伊藤若冲らとともに人気を博し、現在は奇想の画家としてその名を轟かせています。一方で皮肉屋という性格から、その人生はとても破天荒。そんな芦雪の代表作と人生をダイジェストでご紹介します。
長沢芦雪「虎図襖」 重要文化財 江戸時代・天明6(1786)年 襖6面 紙本墨画 右2面 各180×87cm、左4面 各183.5×115.5cm 無量寺
応挙に入門し、たちまち異才ぶりを発揮
1754年、京都・篠山に生まれ、貧しい下級武士の息子として淀(よど)で育った芦雪。絵の道を志し、円山応挙(まるやまおうきょ)のもとに入門後、アトリエに通ううちにメキメキと頭角をあらわし、応挙の高弟として活躍。やがて、師風とは異なる奇抜な着想と奔放な画風によって京画壇で異才ぶりを発揮しました。
3度も破門を経験!?
実は芦雪は3度も破門されています。一度は応挙が描いた画手本をそのまま持参し、「これはよくない」と直されたので、今度は自分で清書した画を見せたら「これでよろしい」と…。この行為がバレてしまったのです。しかし、結局、自分そっくりの絵をいつでも用立てできる重宝な芦雪の才能を応挙は見限れなかったようです。
長沢芦雪「白象黒牛図屏風」(左隻) 紙本墨画 六曲一双 各155.3×359.0㎝ エツコ&ジョー・プライスコレクション 屏風に描かれた黒い牛と対に、白い象が画面からはみ出すほどの大きさで描かれている。また、黒牛の腹にはとても小さな白い仔犬。黒白、大小、二重構造の対比を趣向にした驚きに満ちた作品。
絵だけじゃない! 多彩な才能をもつ芦雪
芦雪は一方で、馬術・水泳・剣術・音楽と多趣味多芸の人。変わったものでは独楽(こま)の曲芸も得意だったといいます。しかし、あるとき藩主に招かれて庭先で独楽の曲芸を演じたところ、高く放った独楽を受け損じ、眼に突き刺さって鮮血が噴き出る事件となり、片目を失ったとも伝えられています。
芦雪の代表作! 無量寺の「虎図」
天明6(1786)年、33歳のときに、芦雪は応挙の代わりに南紀にある東福寺系の一派の寺で襖絵を揮毫しました。近来評判となっている無量寺の「虎図」は、獲物に襲いかかろうとする虎の全身が襖いっぱいにクローズアップされ、見る人を驚かせ、宗達以来の“生きもの描き”の名手としての地位を築きます。従来の動物画には類を見ない型破りな絵は、76歳になる師応挙から離れた芦雪の解放感の所産ともいえるでしょう。
無量寺の「虎図」。芦雪が描いたほかの虎とは違い、猛獣らしき凄みはさっぱり欠いて、猫を思わせる無邪気さがある。皮肉な芦雪が胸中ひそかに戯気を抱えて巨大な猫を描いたのではないかという説もあり。
芦雪の代表作「虎図」にさらに迫る!
絵師たちによって“虎”は多く描かれた画題でもありますが、芦雪の「虎図」には他の作品とは異なるユーモアな仕掛けが潜んでいます! 若冲の虎図と比較してみましょう。↓↓↓
長沢芦雪「虎図」に隠されたユーモアなオチとは…?伊藤若冲の虎と比べてみた!
多才なのに評判は悪かった…芦雪の悲しい末路
奔放で傲慢に見える態度から「破門説」をはじめ、悪評とも言えるさまざまな噂が多かった芦雪。応挙の死後、芦雪の悪評は表面化し、“おのれひとりと慢心して、画は悪くなる一方でとうとう食い詰めて大坂で首をくくった”という噂や、“淀藩主の寵愛ひとかたならぬ上、我が儘な振る舞いが多く、藩の者に毒殺された”など、口伝風評がいくつも。諸説ありますが、どうやら46歳で大坂にて毒殺されたようです。