聖武天皇の御剣と伝わる
日本刀の擬人化キャラクターで爆発的な人気を博すオンラインゲーム「刀剣乱舞」が配信されて、早いもので今年で十年になる。
もともと日本刀は古くから愛好家の多いジャンルだったが、「刀剣乱舞」では登場する多彩なキャラクターたちが実在する刀剣をもとに構築されているとあって、ゲームファンたちが多くの刀剣に関心を寄せるようになった。当時はこの現象を「刀剣ブーム」との言葉で語るむきがあったが、その後も刀剣を所蔵する博物館や社寺で特別展が盛んに開催されたり、刀剣にまつわる各種出版物が刊行されたりと、その人気はいまだ衰える兆しがない。すでに十年を経た今となっては、これは一過性のブームではなく、刀剣愛好が一般化しつつあると考えを改めるべきだろう。
日本刀は本来、人を殺傷するための武器であるが、その独特な美しさから、実用を離れて愛好する者は古来数多い。そんな刀剣愛好の歴史の中でも名高い作品の一つに、現在、東京国立博物館に所蔵される国宝、通称「水龍剣」(写真下)がある。刃の長さは六十センチあまり、ほぼまっすぐな刀身に片刃がついたこの直刀は、明治五年までは奈良の正倉院に伝世していた。


明治維新後、近代国家への仲間入りを目指して漕ぎ出した新政府は、国の殖産事業の一環として博覧会の旺盛な開催を目論んだ。一方であまりに迅速な近代化が推し進められた当時の日本では、古器旧物——今日でいうところの文化財が軽視され、海外に次々と文物が売却されていた。このため政府は文化財の保護と、それらの博覧会への出陳準備のため、明治五年、主に関西を中心とする本格的な文化財調査を始めて行う。当時の干支から「壬申調査」と呼ばれたこの際には、正倉院も勅使を派遣して開封されたが、これをきっかけに明治天皇の目に留まったのが、当時はまだ無銘だったこの直刀だった。
伝承によれば、この剣は聖武天皇の御剣。奈良時代の直刀にしては珍しく保存状態がよく、一説には大陸伝来との説もあるが、明治天皇のもとに残された際には刀身のみで、刀装具——鞘や柄、飾り金具といったものはついていなかった。
そこで明治天皇は関西出身の金工家・加納夏雄に、刀装具一式の作成を下命。加納が梨地蒔絵に龍や瑞雲を散らした刀装具を作り上げたことから、それまで無銘だった刀は「水龍剣」との銘がつけられ、その後、長く佩用として明治天皇に愛された。実に千年以上も制作年代の異なる刀身と刀装が合致して、新たな主の身を飾ったと言えるだろう(写真下)。


ところでそんな水龍剣の育ての親とも呼ぶべき加納夏雄は、この刀装具の制作と並行して、同時期に新たにスタートした貨幣製造にも深く関わっていた人物。それまでの「両・分・朱」に代わって、新たな貨幣単位「円・厘・銭」が明治四年に定められ、その貨幣のデザインや見本制作が加納とその弟子たちに依頼されたのだ。加納が京都の刀剣商の養子として育ち、当初は完全な市井の金工師として活躍していたことを思えば、大変な抜擢である。
新約聖書の福音書において、イエス・キリストが統治者・カエサルの顔が刻印された貨幣を指して、「カエサルのものはカエサルに」と語ったと記されているように、西洋では古来、貨幣には君主の顔が刻印されるものだった。だが日本においては、天皇が庶民の前に姿をあらわすことは滅多にない。このため新貨幣の表には天子を示す龍が刻印され、君主像の代理とされた。

加納はこの後も、褒章や記章などのデザインに関わり、東京美術学校教授と帝室技芸員を兼ねるという栄誉を受ける。ただ、貨幣や「水龍剣」など多くの「龍」モチーフを手掛けながらも、関係者の証言によれば加納自身は決して龍を彫ることを得意としていなかったという。
それにもかかわらず、加納がその後半生にわたって「龍」を求められたのは、近代国家へと歩み出したばかりの日本が、日本の主君たる天皇の存在の象徴としてそれを必要としていたからに違いない。いわば明治という社会は、天皇に「龍」をまとわせ続けたのだ。
ただ明治三十年に貨幣法が改正されると、その後、鋳造される金貨・銀貨からは龍の図案が消える。この二年前、日本は日清戦争に勝利しており、龍の起原たる中国の弱体化が、天皇の象徴として龍を使い続けることを忌避させたのかもしれない。代わって貨幣に登場したのは日の出を表す日章と八稜鏡で、これらのモチーフはその後太平洋戦争が終わるまで、長く帝国日本を象徴するものとなる。ただ、加納は龍が貨幣から消えた翌年、明治三十一年二月に七十一歳で没しており、その後の推移を見届けることはなかった。
明治という時代は列強諸国に追いつくために、かつてない勢いで変革を続けた。天皇になにをまとわせるのか。その試行錯誤一つをとっても、苦心のありようがしのばれる。

