展示会でひとめぼれ! ミハラヤスヒロの“スカジャン・トレンチコート”を注文
和樂web編集長・鈴木深(以下、編集長):今日のアウター、もしかしてスカジャン?
阿部顕嵐(以下、阿部):そうですね。
編集長:どちらのブランドですか?
阿部:ミハラヤスヒロで、数か月前に完成して届いたものです。去年の展示会に行き、いいなと思って注文しました。
編集長:新作なのですね! 足元はどうなっているのですか?
阿部:ファスナーがついてない着物風のスカジャンで、ボタンのないトレンチコートみたいな形です。
編集長:ずいぶん丈が長いですよね?
阿部:これはレディースだと思うのですが、女性が着る場合は裾が地面をひきずる形かもしれませんね。
編集長:それは面白い! このスカジャンを着こなす人は、そうそういませんね。
阿部:ありがとうございます(笑)。
スカジャン、元の名前は“お土産ジャケット”。横須賀ではなく銀座で大ヒットしたハイブリッド商品
阿部:今日はお寺で取材と聞いていたので、和の刺繍がある服を選んでみました。
編集長:なるほど。それでスカジャンをお召しになっていると。普通スカジャンといえばギラギラのオラオラな風情が多いですが、ミハラヤスヒロの手にかかると、どこか上品な茶系×ゴールドベージュの配色になるんですね。
スカジャンが最初にヒットしたのは銀座だった。世界中の高級ブランドがキラキラと並ぶ銀座だが、第二次世界大戦の直後は、進駐軍のアメリカ人向けの露店がたくさんあったらしい。今では想像できない景色だ。
露店ではアメリカ兵がお土産として好む、オリエンタルなものに人気が集まったようだ。雛人形はとくに人気。そんな様子に、三井財閥系の生地の商社が目をつけた。アメリカ兵の普段着であるベースボールジャケットに、和柄の刺繍をしたら売れるのではないかと考えたのだ。
商社はさっそく、桐生や足利で着物に刺繍を入れてきた職人に依頼。絹の着物に質感が似たレーヨンのベースボールジャケットにワシやトラ、龍などの刺繍をつけて売り出した。銀座で人気になった刺しゅう入りジャケットは、その後、米軍基地の購買部のお土産コーナーに納品され“スーベニアジャケット(お土産ジャケット)”として人気商品となったそうだ。
その後、銀座の露店は消えていった。しかし米軍基地がある横須賀では引き続き“お土産ジャケット”は売られた。1960年代になると日本の若者はアメリカ兵のファッションを取り入れるようになり、わざわざ横須賀までジャケットを買いに行ったそうだ。そのころから、“お土産ジャケット”ではなく横須賀の地名が入った“スカジャン”と呼ばれるようになった。
日本で長く続いてきた着物への刺繍文化と、米軍兵が好んだファッション文化が合わさりうまれたスカジャン。今では世界中のハイブランドからも注目され日本の代表的なファッション・スタイルとして認められているそうだ。海外の文化とのミックスで新しい日本文化がうまれるのは面白い。
とび職人・御用達メーカーのニッカポッカを、ハイブランドに合わせてみた
編集長:ボトムスはどんなブランドですか?
阿部:寅壱(とらいち)です。
編集長:とらいち?
阿部:じつはこれ、とび職の方などがお仕事するときに履く作業服なのです。
編集長:ニッカポッカですか! すごい組み合わせですね。
阿部:そうです。すごく動きやすいし、シルエットもとてもオシャレなので気に入っています。
編集長:素材は、とても丈夫なコットンですね。
阿部:多分、昔の高校生はこれに学ランを着てたのではないかと(笑)。
編集長:スカジャンにニッカポッカ。かつてのヤンキー・ファッションのリバイバルですね。そこにあえて時計はクラシックなカルティエのタンクをあわせているのがとても面白い! スカジャンの色味に時計のストラップの色を重ねるのはさすがです。
阿部:この時計は、フランスに旅行したときにカルティエのパリ本店で買いました。「タンクが欲しい」と言ったら、ずっと社長室で使っていたような部屋に案内してもらって。黒と赤の革の家具があってすごく素敵でした。レザー部分は黒や茶色がスタンダードかと思うのですが、僕はグレーにしました。
編集長:そうなのですね。今日はユニークな着こなしを見せていただき、ありがとうございました。
1940年代のアメリカの普段着ベースボールジャケットと、日本に長く続いた着物にほどこされた刺繍。それぞれ時代も文化も全く違うものが融合してうまれたスカジャン。遠いもの同士が合わさるからこそ、面白い文化がうまれる。今日の阿部さんの私服も、パリコレで活躍するミハラヤスヒロのジャケットと、作業服であるニッカポッカを合わせ新しいファッションを作り出す。これぞ、阿部さんがつくる新しい日本文化だ!
参考文献:エイムック1102「スカジャン」
撮影協力/延命院
インタビュー・文/給湯流茶道 写真/篠原宏明
日蓮宗 寶珠山 延命院
今回、取材場所としてご協力くださった延命院。日暮里駅から徒歩3分、谷中にも近い風情あるお寺です。
住職は雅楽に興味をお持ちで、お寺で演奏会も多数企画されています。ぜひ皆様お立ち寄りください。
…今から400年前
延命院のはじまりは寺伝によると江戸初期慶安元年(1648年)、後の徳川幕府第四代将軍徳川家綱の乳母、三沢局が開基となり、七面大明神を守護する別当寺として日長により、新堀村(現在の日暮里)に開創されました。
山梨県身延の七面山に百日参籠し、霊夢をこうむり、祈祷法と七面大明神の鱗を授けられた日長が、寛永17年(1640年)、三代将軍家光から安産の祈祷を命じられ、翌年家綱が誕生したことを受けて建立が許されたといいます。社殿等は残らず大奥から寄進されたとされています。慶安4年の家綱の将軍就任後、徳川家の永代祈願所となり、庇護されました。
延命院の七面大明神は江戸の中でも最も古い七面大明神の一つであり、江戸時代前期から江戸名所の一つとして知られ、多くの参詣者を集めました。特に江戸城大奥から信仰を集め、正室の代参(本人に代わっての参拝)や、女中の祈願が盛んに行われたことで知られています。
〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3-10-1
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