琳派の琳は光琳の琳。光悦と宗達はちょっと不満?
光琳の活躍により琳派が大ブレイクを果たし、さらに乾山(けんざん)、仁清(にんせい)の陶芸に受け継がれたことで、琳派はジャンルを超えました。その流れを、今回も光悦クンと宗達クンの夢想対談でご紹介します!
[夢想対談]第一弾はこちらから!
宗達:江戸時代も始まって100年もたちますと、富や文化は徐々に江戸へ集まっていったと聞きます。
光悦:私の遠縁にあたる尾形家の光琳・乾山兄弟の時代だな。
宗達:京でも有数の呉服問屋「雁金屋(かりがねや)」で育ったふたりは、幼いころから光悦さんや私の作品に親しんでいたとか。
光悦:しかし、ぼんぼん育ちの光琳は金にとんと無頓着で、家は破綻。それで、30歳を過ぎてから絵師を志した。同じころ、乾山は陶芸を始めている。
宗達:光琳は私の絵を好んでいたと聞きますから、まんざら他人とは思えません。
【宗達ゆずりの画面構成に梅を描き、光琳らしさを発揮】尾形光琳『竹梅図屛風』二曲一隻 紙本金地墨画 江戸時代(18世紀) 65.2×181㎝ 重文 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives
光悦:代々、書には優れた家系で、私の漆芸やおぬしの絵を手本にしていくうちに、名を上げていったというから、ある意味で私らの弟子筋と考えてもいい。
宗達:本歌(ほんか)取りと言うのでしょうか、おかげで私の名も知られるようになったのですから、ありがたいことです。
光悦:模倣からまたたく間に独創性を生み出した光琳も、京に有力な贔屓が見つからなくて、47歳のときに江戸に下っている。私たちからすると隔世の感だ。
宗達:江戸で羽振りがよくなったものの、水が合わなくて5年で京に戻っていますね。
光悦:金にだらしなく身持ちも悪い。甲斐性のない男だったが、絵の才能は間違いなく抜きんでていた。京に戻った後は落ち着いたのか、次々に大作を手がけておる。
宗達:いずれも見事な絵です。
光悦:おぬしを前にして言いにくいことだが、光琳はわれわれを超えよった。
宗達:実は「琳派」と呼ばれることに抵抗もあったのですが、『燕子花図屛風』や『紅白梅図屛風』、『八橋蒔絵硯箱』を見ると、仕方ないかと。
尾形光琳『紅白梅図屛風』二曲一双 紙本金地着色 各156×172.2㎝ 江戸時代(18世紀) 国宝 MOA美術館蔵
光悦:私らの創意工夫を発展させてくれたのだからな。私も異存はないぞ。
宗達:乾山は光琳と違って地道に陶芸を極めていきました。やはり血筋ですね。
光悦:おっとりとした性格が作品に表れておる。光琳が絵付けをしたものもあって、なかなかよい兄弟だったようじゃ。
【光琳の図案を用いながら、陶芸の意匠に新風を吹き込む】尾形乾山『銹絵染付金彩絵替土器皿』五枚 径16×高2.4㎝ 重文 根津美術館蔵
宗達:野々村仁清もふたりの作風を受け継いでいますね。
光悦:だが弟子ではない。琳派といってもそれは一派を形成して作品をつくったのではない。私淑という形でセンスを受け継ぎ、発展させたという珍しい形態なのだ。
【斬新なデザインを加え、鑑賞用のやきものを完成】野々村仁清『色絵吉野山図茶壺』高35.2㎝ 江戸時代(17世紀) 重文 福岡市美術館蔵(松永コレクション)